凪という“無敵の技”
鬼滅の刃に登場する義勇の技「凪」は、相手のあらゆる攻撃を無に還す“無敵”の技として描かれています。
力で受け止めるのではなく、ただ静かに、すべてを無効化してしまう──。
なぜ凪が無敵なのか。
それは「戦いを超えた領域」に立っているからです。
力で打ち返すのではなく、攻撃そのものを意味のないものにしてしまう。
これこそが凪の本質です。
日本文化に流れる「間」の智慧
この発想は、日本文化に古くからある「間(ま)」の感覚と深くつながっています。
能や茶道、武道でも、「間」を制する者が場を制します。
間とは、ただの空白ではなく、次の流れを生む余白です。
凪もまた、自然界では流れが変わるときに現れます。
風が止むのは、次の風向きが生まれる前触れ。
つまり凪は“終わり”ではなく、“始まり”のサインなのです。
現代の日本人は、西洋化や資本主義的な価値観を受け入れ、「より多くを持つこと」や「所有すること」が未来を切り開く力だと信じています。
しかし、本来日本人が自然との調和の中で育んできた創造性は、「凪」のような静かな状態をうまく活用することにあるのです。
氣功における「凪」
氣功の修練でも同じことが言えます。
呼吸と動作を繰り返していると、ふと氣がすべて収束し、静けさに包まれる瞬間があります。
それは「氣の凪」ともいえるでしょう。
心と体の波立ちが消え、まるで世界が止まったような感覚が生じます。
けれど実際には、そこには膨大なエネルギーが蓄えられ、次の呼吸、次の動作で氣は一挙に解き放たれ、新しい流れが始まるのです。
つまり凪とは「氣がゼロに還る場所」であり、そこからあらゆる創造が始まる場なのです。
無敵とは「敵がいない」こと
「凪」という技が無敵である理由は、相手を倒すからではなく、そもそも戦うべき「敵」と自分という構図を成立させないからです。
人生でも同じことが言えます。
人の言葉や社会の価値観、過去のトラウマに翻弄される時、私たちは常に対立や比較から生まれる「戦い」の中にいます。
しかし、内なる凪──静けさの中心に戻ると、それらの攻撃は意味を失います。
外側に振り回されず、自然体でいられる。
その瞬間、敵はいなくなり、私たちは“無敵”になるのです。
三和氣功の文脈での実践
三和氣功が大切にしているのは「本当の自分に還ること」。凪の境地は、そのままこの道と重なります。
- 外側に向かって頑張るのではなく、一度立ち止まり、静けさに戻る。
- 凪の中で、体と心と意識の氣がひとつに整う。
- そこから自然と、新しい流れが生まれる。
これが氣功を通して身につけることのできる「凪の力」です。
人生にどう役立つのか
凪の智慧を日常に活かすと、
- 人間関係の中で不要な争いに巻き込まれなくなる
- 不安や恐れの波に飲み込まれずにすむ
- 静けさの中から、新しいアイデアや行動が自然に生まれる
つまり、凪は「闘わずして勝つ」生き方を可能にします。
もっと正確に言えば勝ち負けの世界からの脱却です。
外側の状況を変えようと必死に戦うのではなく、内側に凪を育むことで、自然と人生の流れが変わっていきます。
結び
鬼滅の刃の凪はフィクションの技ですが、そこに込められた本質は、私たちの生き方に直結しています。
氣功を実践するにあたっても、大きなヒントを得ることが出来ます。
「凪」を体験し、内なる静けさに戻ること。そこからこそ、本当の自分に沿った人生の創造が始まるのです。
「凪」という無敵の力は、特別な人間や架空の剣士のものではなく、誰もが自分の内に持っている力なのです。
今回のテーマを、自然現象・日本文化・量子論・氣功の視点から学術的に掘り下げた「参考コラム」を公開しています。
少し専門的ですが、知識として興味のある方はぜひご覧ください。
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馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。