第1章:治癒とは何か
病が癒えるとき、そこには単なる肉体の修復以上のことが起きている。
その背景には、必ず心の変化がある。
和解、赦し、統合、受容――
そうした内的な転換が起きた瞬間、身体の反応がまるで追随するかのように変化する。
私は大学時代、この「心が身体を変える」という現象に強く惹かれた。
ちょうどその頃、「心身症」という言葉がようやく社会に知られ始めた時期でもある。
それは“ストレスが病気を生む”という、今では当たり前の考え方が
ようやく学問として受け入れられ始めた時代だった。
癒しが起きるときには、和解、赦し、統合といった
心理的パラダイムシフトが起きている。
私はそこに、肉体の修復を超えた「意識の変容」を見ていた。
第2章:心と身体のあいだ ― 意識が生む現実
「治る」と信じた瞬間、脳はその確信に沿って全身の働きを再構成し始める。
たとえば偽薬(プラシーボ)を飲んでも痛みが消えるとき、
脳内では実際にエンドルフィンが放出され、神経伝達のパターンが変わっている。
一般的には、プラシーボとは“思い込みによって症状が消える現象”と説明される。
けれど氣功や心理学の視点から見れば、それは単なる錯覚ではない。
それは、意識と身体の情報が一致したときに起こる自然な再調和のプロセスなのだ。
信じたことに身体が反応する。
このとき起きているのは「思い込み」ではなく、「意識の指令」である。
生命は、意識の方向づけを受け取って、全身の生理機構を再調整している。
当時、私は“心が身体に影響を与える”という事実を
どう説明すればよいのかを模索していた。
今ではホメオスタシス(恒常性)やセルフレギュレーション(自己調整)という言葉が一般的だが、
それらを単なる生理的な反応としてではなく、“意識の指令”として観る発想は、
当時の心理学の枠を超えていた。
「意識」といっても、それは顕在意識のことではない。
私たちが普段アクセスできない無意識レベルの意識――
生命そのものが持つ“方向づけの知性”のことだ。
傷が自然にふさがる。心拍が整う。
それらは単なる自動反応ではなく、
生命が自らに発している「回復せよ」という情報の現れなのかもしれない。
プラシーボのような単純な現象であっても、
ときに医学では説明できない“奇跡的治癒”が起こる。
そのような例を目の当たりにすると、
心理学や生理学だけでは説明できない**“あいだ”の力**の存在を感じざるを得なかった。
後年、私はそれを「氣」と呼ぶようになった。
それは、心と身体の間を流れる情報のエネルギー。
心理学で言う「信念」、宗教で言う「信仰」、
ハワイでは「マナ」、キリスト教では「聖霊」と呼ばれてきたものと本質を同じくする。
プラシーボとは、意識がこの“氣”を介して身体に指令を伝える自然の通信現象である。
それは偶然の奇跡ではなく、生命が本来備えている情報的自己調整力の発動なのだ。
当時の私は、まだ「氣」や「マナ」といった言葉を深く理解していたわけではなかった。
ただ、人が癒えるときには、そこに心の働きが介在しているということだけは確信していた。
人間とは、心や意識が物理に優先して働く生命体である。
だからこそ「治る」「癒える」という出来事において、
心を切り離して考えることはできない。
私は卒論の中で、イエスの「触れる」という行為を取り上げた。
それは単なる慈悲の象徴ではなく、
神聖な意識と人間の身体を媒介する行為だったのではないか、と。
あの頃の私は、宗教でも医学でも説明しきれない“意識と生命のあいだ”を見つめていた。
今振り返ると、それこそが氣功の世界へと導く最初の扉だったのだと思う。
癒しとは、生命がその聖なる流れを思い出すこと。
病が癒えるとは、心と身体と霊が再び調和の中心に還ること。
第3章:癒しとは、聖なる流れを思い出すこと
─ ユング心理学と氣功にみる生命の神聖さ
人はなぜ、「癒し」や「救い」という言葉に惹かれるのだろう。
それは、単に苦しみから逃れたいからではない。
私たちの奥底には、“全体に還りたい”という生命の記憶があるからだ。
宗教が「神との再結合」を語り、
心理学が「自己の統合」を目指し、
氣功が「天地人の調和」を説くのは、
実はすべて同じ構造を持っている。
それは、分離した意識がふたたび源へと還る――
癒し=統合の道である。
カール・グスタフ・ユングは、宗教を信仰の体系ではなく、
魂が自己の全体性を回復しようとする自然な働きとして捉えた。
彼にとって「神」とは、外に存在する超越的な存在ではなく、
無意識の中心にある“自己(セルフ)”の象徴だった。
そして「宗教心」とは、その自己に向かって意識が再び統合されていく
心理的な自然現象だと考えた。
「宗教とは、魂が自らを全体に結びつけようとする自然な態度である。」
― C.G.ユング
ユングにとって、神への信仰や祈りとは、
外なる神との対話ではなく、
内なる神性(セルフ)との再接続に他ならない。
私たちは、無意識の奥に“神的な原型”を宿している。
しかし、それを意識化する力がまだ未熟なとき、
人はその原型を外界に投影し、「神」として崇める。
それが宗教の始まりであり、同時に人間の魂の治癒の始まりでもあった。
氣功における「氣」もまた、この“内なる神性”と通じる。
氣は単なるエネルギーではなく、
心と身体、個と宇宙をつなぐ情報の流れである。
ユングが“自己”を心の中心と見たように、
氣功では“丹田”を生命の中心と観る。
どちらも、個を超えた全体の秩序が流れ込む場所だ。
氣が調うとき、人は天地と調和し、
内なる静けさの中で“ひとつの命”として在る感覚を取り戻す。
それはまさに、ユングが言う「自己との合一」そのもの。
この両者に共通するのは、
善悪を超えた“中庸の意識”である。
そこにこそ、真の癒しがある。
聖なるものとは、超自然の奇跡ではない。
それは、**宇宙と生命の秩序(タオ)**そのもの。
氣功で言えば、「無極」から「太極」へ、そして「陰陽のめぐり」へ――
天地の氣が調和するとき、人は自然の聖性とひとつになる。
ユングが“神のイメージ”を人間の内に見出したように、
氣功では“神聖”を外に求めない。
それは、すでに私たちの身体を通して息づいている。
癒しとは、外から与えられるものではなく、
生命が自らの聖なる流れを思い出すこと。
癒しとは、生命が自らを思い出すこと。
宗教心とは、魂が全体に還ろうとする自然の動き。
そして氣功とは、その回帰を身体で生きる祈りである。
第4章:氣功という道 ― 統合を生きる実践
癒しとは、終わりではない。
それは、新しい生き方の始まりである。
心と身体と霊が調和したあと、
人はもう一度、世界の中へと歩き出す。
そのときに問われるのは、
「どう在るか」――つまり、生き方そのものだ。
氣功とは、その“在り方”を身体で学ぶ道である。
癒しを一瞬の出来事ではなく、日々の呼吸にまで落とし込む実践である。
氣功の基本は、呼吸・姿勢・意識の三つの調和にある。
けれども、その本質は単なる健康法やリラクゼーションではない。
それは、身体を通して意識を観る学びである。
身体は、意識の現れであり、
意識は、身体を通してこの世界を体験する。
つまり、身体と心は分離した二つの存在ではなく、
ひとつの生命の両面なのだ。
氣功を深めるということは、
姿勢を正し、呼吸を静め、意識を澄ますこと。
それによって、身体の中の氣の流れ――
つまり情報の流れが整っていく。
このとき、生命の内側に宿る**自然の秩序(タオ)**が働きはじめる。
それは意図ではなく、知性そのもの。
私たちは「整えよう」とするのではなく、
「整っている」生命のリズムを思い出していく。
氣功の最も深い学びは、“何もしない”ということにある。
それは怠惰ではなく、自然を信頼する智慧である。
呼吸を観る。氣の流れを感じる。
ただそのままに観ていると、身体が、心が、世界が――静かに動きはじめる。
努力やコントロールを手放したとき、
生命の自己調整力(ホメオスタシス)が最もよく働く。
氣功の「無為自然(むいしぜん)」とは、
この“手放すことによる完全な調律”の境地を指す。
何かを変えようとする意志を手放したとき、
生命は自然に整い、世界は静けさの中で動き出す。
癒しとは、誰かに癒されることではなく、
生命が自らを調える動きに身を委ねること。
すると、他者や世界に対する見方も変わっていく。
善悪、成功失敗、正誤といった二元が溶け、
すべての出来事が“ひとつの氣の流れ”として感じられるようになる。
このとき、人は「氣功をする人」から「氣功を生きる人」へと変わる。
つまり、外的な修練を超え、存在そのものが癒しの場になるのだ。
統合とは、受動的な静けさだけではない。
そこから生まれる創造こそが、氣功の成熟である。
内なる静けさに立ち返りながら、
世界に関わり、他者を癒し、
愛と調和の場を創り出していく。
氣功師とは、エネルギーを操作する人ではない。
存在そのものを通して、宇宙の秩序を体現する人である。
彼らが放つ癒しは、行為によるものではなく、
ただ“在る”という存在の波動そのものから生まれる。
それは祈りに似ている。
だが祈りの対象は外にはなく、
“生命そのもの”とともに呼吸している。
癒しの道は、最終的に「静けさ」へと還る。
それは空白でも停止でもない。
すべてを生み出す場としての静けさである。
心が澄み、身体がやわらぎ、氣がめぐるとき、
人は宇宙の呼吸とひとつになる。
そのとき、何もしていないのに、すべてが動いている。
静けさの中で世界は動き、
在ることそのものが癒しとなる。
それが、氣功という道。
氣功とは、生き方そのものであり、祈りそのものだ。
呼吸を整えるたびに、宇宙のリズムと調和している。
立つ姿勢の中に、天地が交わり、
ひとつの命として“いま”が息づいている。
癒しとは還ること。
静けさとは源。
そして、在ることこそが創造である。
私たちはみな、氣の流れそのものとして生きている。
世界を癒すとは、世界を操作することではなく、
世界とともに呼吸すること。
それが、氣功という生き方である。
このコラムで語った“癒しの本質”は、氣功を通して実際に体験し、
自らの身体と意識を通して確かめることができます。
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馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。