情動が自己認識をつくりだす
内的世界が現実であるというセオリーに則ると、自分が信じていることが現実となって体験されるということになります。
「自分が信じていること」とは、もっと具体的に言えば、潜在化した信念や自己像のことです。
潜在化した信念や自己像は、いわば、自分はこういう人間であるという、無意識レベルの自己認識を形作っています。
脳はその自己認識にそぐわない行動や判断は自動的に避けるので、現実として体験されることは、必ずその自己認識を裏切ることはないのです。
では、潜在化した信念や自己像はどのように生まれるのか。
それは過去の情動記憶によって作り出されます。
情動記憶とは、体感を伴うような強い感情を伴った体験の記憶のことで、その体験とその時に感じた感情によって、信念や自己像が作られます。
例えば、友達を誘って公園に遊びに行ったら、たまたまその友達が使った遊具が故障していて友達が大きな怪我をしてしまったとします。
あまりの驚きと不安で、あなたは友達が怪我をしたのは自分が公園に連れ出したせいだと思い込みます。
すると、その時に感じた罪悪感によって「私は悪い人間だ」とか「私のせいで皆が被害を被る」などの自己像や信念を無意識下に作り出してしまうのです。
場合によっては、その感情を感じることがあまりに苦しすぎて、感じないようにブロックをかけるような自己防衛さえします。
そうした信念や自己像から作られた自己認識は潜在化してしまうので、本人は自覚がないままに、「私は悪い人間だ」とか「私のせいで皆が被害を被る」ということを証明するような出来事ばかりを体験することになるのです。
感情を通して自己を再認識する
現実は潜在的な自己認識によって作り出されているので、その現実を変えるためには、潜在的な自己認識を意識にあげて再認識しなおすことで「自己認識を更新する」というプロセスが必要になります。
そして、自己認識を更新するためには、どこかのタイミングで過去の感情を追体験してその時に生じた自己認識を書き換える必要が出てくる場合も多いです。
不適切な自己像や信念を生み出した情動体験は、そのときの自分の抽象度(物事を認識する視点の高さ)が低かったがために、不適切な自己像や信念を作り出します。
先ほどの例で言えば、友達が思わぬ怪我をしたその恐怖とショックで抽象度が下がって、私のせいだ、私が悪いのだと思って起きた出来事に整合性をつけて納得しようとしてしまったのです。
でも本当は、あなたは大好きな友達が楽しい公園のひとときを過ごす中で突然怪我を負い、ものすごく怖くて、友達が痛々しく怪我を負ったのを見てものすごく悲しくなってしまっただけだった。
そのようにして当時起きた事を客観的に追体験できると、友達が怪我をしたことは確かにショックな事だったが、でもそれはたまたま友達が選んだ遊具がたまたまそのタイミングで壊れていたからにすぎないし、自分が誘わなければ友達は公園で遊んで楽しい気分を味わうというプラスの体験をすることもなかったし、怪我をするという体験で友達が損ばかりしたとは限らないと、その出来事を再認識出来ると、自分が悪いという根拠はどこにも見つからないことがわかります。
ただ自分は猛烈に怖くて悲しかった、自分のせいにして安心したかっただけなのかもしれないな… そのように自己認識が更新されると、潜在下した信念や自己像は揺らいでいきます。
不適切な自己認識が不適切な現実を作り出すことが理解できれば、過去の「感情」を通して自己認識をしなおす、今感じている「感情」を通して自己認識を深めることは、とても重要なことだと理解できるでしょう。
潜在化した感情と向き合うことのリスクにどう対応するか
過去の感情と向き合って自己認識を更新することは、現状の外に出るためには時には必要なことです。
しかしながら、潜在化した感情は、自己防衛のために潜在化させているという側面もあるので、それを追体験するのは過去の非常に辛い体験を再体験するだけになるというリスクがあります。
過去の辛い体験を再体験するだけになってしまうと、かえって当時の心的なトラウマをよみがえらせるだけになり、エフィカシーを下げたりセルフイメージを更に傷つけたりする恐れもある。
思い出しても辛いだけ…というわけです。
ですから、無理矢理に過去を掘り返して追体験する必要はないというのが三和氣功の考えです。
過去の自己認識を更新するべきタイミングで自然と過去の感情が意識に上がってくると考えるからです。
では、過去の潜在化した自分と上手に向き合うために私たちは何をすべきか。
潜在化した感情と向き合う時に、そこで起きうるリスクに対してどのようにコンディションを整えておくのか。
それは、ゴールと身体性だと三和氣功は考えています。
ゴールとは、これからの未来の本当になりたい自分のイメージ、目標やこれからの生きる目的のことを指します。
こうなりたい、本当はこれが欲しいということを自分なりに決めることは大事です。
なぜならこれまでの慣れ親しんだ自分の生き方を手放して、新しい自分の生き方を手に入れるためにはこれまでよりどころにしてきた古い自己像や信念に変わる、本当に自分が欲しいと思う自己像や信念が必要だからです。
その新しい自分のイメージが、これからのあなたの行動や判断の基準となり、拠り所となります。
古い自分の感情に向き合ったときに、拠り所となる新しい基準を持っていないとただ辛い過去の自分の再体験によって、過去のセルフイメージが強化されるだけになってしまうかも知れません。
理想の自分を手に入れたいと思うとき、私たちは古い自己像と新しい未来の自己像の両方を情報空間に存在させます。
そして、古い自分のまま生きるのか新しい自分として生きるのかの選択をする必要が出てきます。
最初はうまくいかないかも知れませんが、新しい自分を選択や行動の基準として掲げておくことが出来れば、いつかはそちらの自分で生きられるようになります。
そして、更に大事なのが「身体性」であると三和氣功では考えています。
身体性こそ、ネガティブな情動に揺らがず、セルフイメージやエフィカシーを高めるために必要不可欠なのです。
身体と情動の関係
身体性とは、身体によってどれくらい物事を認識できるかという知能や学習能力のことで、身体の感覚を使ってより繊細に自己認識出来る方が身体性が高いといえます。
身体的な感性のあり方と言っても良いかもしれません。
伝統的な氣功では、例えば、丹田や大周天という、身体的感覚によって認識出来る情報的身体を、より詳細に意識にあげる訓練によって身体性を高めるという方法で身体を書き換える、洗練することができます。
実際に、丹田がしっかり意識できるようになったり、「軸」が意識できるようになっていくと身体は変わります。
体力がついたり、安定感が出ます。
さらに、それは心理面でも大きな影響を与えます。
セルフイメージが自然と高くなったり、「情動」に対する体験の仕方が変わってきます。
長期講座のクライアントさんが、身体性が整うことによって情動に対する反応が変わるという、こんなフィードバックをくださいました。
昔は怖い映画を見るのがいやだった、それは恐怖を刺激するシーンや気持ち悪さを強調するシーンを見ると本当に恐怖を感じ気持ちが悪くなるからだったけれど、今そのようなシーンを見ても、普通にやり過ごせるくらいあまり怖いと思わなくなっていた。
これは明らかに、身体が書き換わったことによって、情動に対する距離感が変わってしまった例です。
身体性が乏しいと、恐怖や怒りなどの情動が発火すると途端に抽象度がさがり、情動に駆られて理性的な思考が出来なくなります。
怒りや恐怖で我を忘れる、その情動に振り回されたり支配されて、自分を見失う、そのような反応しか出来なくなります。
それは恐怖や怒りなどの情動に対して強度のストレスを感じてしまう身体を持っているからです。
ストレスに対して過敏すぎるのです。
でも身体性があがると抽象度のコントロールも可能になるので、情動に対してそこまで強度のストレスを感じる必要がなくなります。
つまり、過去の潜在化した自己像と向き合う時に追体験される過去の辛い感情も、身体性が整っていれば過去の自分と同じような反応ではなく、もっと客観的に、淡々とそれと向き合うことが可能になるということです。
とても辛い、とても苦しい、とても悲しいといった、情動に振り回されないだけの身体を作っていけば、過去の辛すぎる情動記憶とも淡々と向き合って、自分にその時何が起きていたのかを高い抽象度から認識しなおす知力と体力が手に入ります。
そのようにして、潜在化した自己像や信念を創り上げる材料となった過去の情動記憶も、高い視点から再認識することが出来ると、そこではじめて潜在化した情報をコントロールできるようになります。
必要がないと無意識レベルで納得できたら、もはやその古い自己像や信念は自然と新しいものに置き換えられていくでしょう。
気功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。