気功について

言葉を越えたところにしか真実は見つからない~愛と調和の『氣』の習得法

2025年3月4日

認知科学から見た氣功は「共感覚による内部表現の書き換え」と定義されます。

特に学び始めのころにはこの定義に忠実に氣功のことを理解することに努めることをお勧めします。

 

いろいろな人が「氣」や「氣功」のことを説明し定義していますが、その中でも最も客観性と再現性のある氣功の定義だからです。

 

科学的に定義できる、科学的に説明がつくということの利点は「客観性」と「再現性」があるという点です。

 

主観的であればあるほど、それを考えた人にしか理解できない、その人にしか使うことができないことになってしまいます。

 

「氣」のような目には見えないものを扱う際には、どうしてもスピリチュアル性が高くなり、

かなり主観的な見解でしか説明が出来なかったので、

かつては特殊性や特別性が強調されることで曲解されることも少なくなかったと思います。

また、それぞれの人の主観的な言葉を使って感覚的にしか伝えられなかったため氣のことを理解できる人もいれば出来ない人もいたでしょう。

 

でも「認知科学」という科学的な視点で氣功を解釈することにより、

特殊性が薄れ、誰もが短期間で理解可能、習得可能になったのです。

 

「共感覚による内部表現の書き換え」という定義を採用することは、

「氣」という目には見えず手では触れられない道具に、マニュアルが出来たようなものです。

(これは本当に朗報です)

 

この定義に沿って、「氣」とは何かを考えていくと「氣は情報である」という一つの答えが出てきます。

これは現代氣功を学んでいる人ならすでに十分知っていることでしょう。

 

何らかの情報(概念)を「五感」を使って認識している、これが現代氣功が説明する「氣」です。

 

ところが、「氣」は情報であるというところで納得してその先を考えずにいると「氣」の本質は見えなくなります。

情報とは一体何なのでしょうか。

 

「氣」は情報である、これは意識や人間の認知(心)を解明しようとする最先端の科学の裏付けがある認識であることは間違いありません。

 

でも私には現代氣功を学んでいる多くの方が見落としていると感じることがあります。

それは、「氣」は感じるものであるということです。

氣は情報であるといったところで、氣そのものを捉えたことにはなりません。

理屈を理解できただけです。

 

重要なポイントは、感じるものである以上は「氣」は言葉では捉えきれないものなのです。

 

たとえば、冬の寒空に上着なしで放り出された時の寒さを説明しようとしてみてください。

いろんな表現が出てくるでしょうが、その寒さ自体をとらえることはできません。

 

氣の感覚を人は様々な言葉で表現します。

ピリピリ、じんじん、モヤモヤなどの刺激を表現する人もいれば、

温かい、熱いと温度を表す言葉でとらえる人もいるし、

磁石のようだ、電氣のようだという人もいます。

 

どんな風に「氣」の感覚を表現しても、その実態をとらえているものではありません。 

「氣」というのはそれの名前であって、それそのものではありません。

 

このことを深く思考しようと思うかどうかが、実は『本当の自分』の「氣」を使うための鍵となります。

 

「氣」は目に見えません。手で触れることもできません。

だからこそ、まずは言葉でしっかりと定義づけて理解する必要があります。

言葉で定義できたものは、私たちは容易に理解し、「使う」ことが出来ます。

「氣功」の理屈を理解するにはそれで十分でしょう。

 

でも、老子はこのように言っています。

それは名前などないのだと。

 

なので言葉によって氣功のすべてを理解しようとすると氣の真実は見えません。

 

言葉で捉えることのできる次元を超えたところに

氣の本質を理解する鍵があるのです。

 

もしあなたが「愛」や「調和」のレベルまで「氣」を高めていきたかったら

氣の本質を捉えるようにしていきましょう。

 

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