気功について

本当の自分に目覚める氣の使い方~錬金術と気功

2024年4月11日

錬金術とは?

錬金術とは、古代のギリシャやエジプト周辺に起源をもつ、卑金属から黄金を作り出すための技術のことで、化学、薬学、医学など様々な学問がのちにその影響と恩恵を受けることになりました。

錬金術は中世のヨーロッパで大流行しましたが、実は気功の起源をたどると、錬金術とも深いかかわりがあります。

但し中国では錬金術とは呼びません。

「金」ではなく「丹」を作り出すことを目的としていたので「錬丹術」と呼びます。

あとでも述べますが、「丹」とは、不老長寿の霊薬のことで、これを手にすると「人間の限界」を超えられるわけですね。

「錬金術」は気功師養成講座の後半部分で扱うテーマですが、もちろん物質的なレベルにおける「金」の生成を取り扱うわけではありません。

錬金術の背景には哲学(ヘルメス哲学)があり、広義には、あらゆる物質と人間の肉体や魂をも対象としてそれらをより「完全な存在」に錬成する試みを意味します。

錬金、錬丹とは、より本質を観れば、この世界におけるあらゆる領域における卑金属的なものが貴金属=「金」に象徴されるものへと変容していく過程を指しているといえます。

この意味においては、卑金属が象徴するものとは、不完全、病、偽物、限界、無価値なものですし、一方「金」とは、完全無欠な本物ということになります。

あなたは自分を卑金属だと思いますか?金だと思いますか?

 

錬丹とは?

錬丹とは、中国における錬金術といってもいいのですが、なぜ「丹」なのでしょうか?

それは「丹」が、あらゆるものを変容、再生させる力を持った霊薬だと考えられているからです。

不完全なものが完全になるために、病んでいるものが健康になるために、偽物が本物になるためには、「丹」が必要なのです。

この丹は、西洋の錬金術における「賢者の石」に相当するものだと考えられます。

「丹」や「賢者の石」は、錬金の過程において不完全性(卑金)が変容し完全性(金)が現れ、成就するためになくてはならないものなのです。

そしてこの「丹」を文字通り物理的な薬として生成しようと試みる方法を「外丹術」と呼びます。

外丹は、まさに錬金術そのもので、鉱物や草木を鼎炉(釜のようなものと焼却炉)にて火にかけて焼煉(加熱)することで丹を生成することです。

 

気功は「丹」を得るための内的な試み

一方、錬丹には「外丹」に対して「内丹」と呼ばれるものがあります。

気功には「内丹」が深くかかわっています。

例えば「丹田」とは、言うまでもなく体内において「丹」が生成される場所、「丹」を得ることのできる場所という意味です。

三和氣功では基礎的な段階においては「身体性」という概念を使って「丹田」について説明しますが、

「丹田」とは、病を治癒させ、不完全性を完全なものにし、人間が人間の限界を突破するために重要視されてきたものなのです。

ただし、丹田と言われる物理的な組織があるわけではないので、わかりやすく「身体性」という概念を使ってとらえるようにしています。

内丹とは、外丹とちがい、非物理的な領域=情報次元における取り組みなので、身体の感覚、イメージ、意図などを駆使して、「共感覚」によって行う必要があります。

その一つの試みとして内丹術が発展し、気の修行法として洗練されていきました。

たとえば、錬金術においては物事を生み出すためには「聖なる炎」が必要であると考えられていますので、金を生み出すためにアタノール(炉)を炎で加熱するわけですが、

内丹における炎は「意念」であり、それによって引き起こされる共感覚を増幅させることによって丹田に気が満ちたり、特定の経絡を気がめぐりだします。

伝統的な気功はイメージや意図と共感覚を駆使して、内的な感覚に変容を起こし、洗練していく(丹に変えていく)ために行うといってもよいでしょう。

 

内的な体験として鉛を金へと変容させる

さて、内的な体験として錬金術を捉えてみると、私たちを過去にしばりつけ、自らに制限をかけさせる思い込みやネガティブな感情こそ卑金属であると言えます。

辛くて苦しい情動が湧く時には、私たちはそれらを感じたくないと見て見ぬふりをし、臭いものに蓋をするがごとくなかったことにし、ごまかしたり、逃げたりします。

それは防衛としては成り立っていますが、防衛ばかりをしていても何も変わることはなく、そこに錬金的な変容の余地が生じることはありません。

もしも、錬金のプロセスを成し遂げようと思ったら、どこかでしっかりとその「鉛」のような感情や信念を鼎炉(アタノール)にかけ、意念による聖なる炎によって溶かし、変容を起こす必要があります。

これは講座やセッションの中で実際にやるともっとわかりやすいですが、そうした感情や信念を内丹のプロセスにかけると、エネルギー的な変容が起きます。

別の見方をすると「解放」が起きるということもできるでしょう。

いずれにしても、自分の内的な体験として錬金術を試みようとしないと、私たちは成長できず他人の価値観に縛られ、誰かの作った枠の内側でしか生きられない、「鉛(卑金属)」のままで終わってしまいます。

 

錬金術と人生

錬金術は卑金属的なものが貴金属へと変容していく過程であるなら、人が親や社会の作った枠組みを壊して本当の自分の生き方へと向かっていく人生そのものも錬金のプロセスであるとも言っても問題ないでしょう。

このようなレベルで錬金術をとらえるとき、錬金術や錬丹術が目指すのは人間という存在から不純物を取り除き、純粋で完全な、本来の在り方へと戻すことであるといえます。

ここでいう不純物とは、人が「金」となることを妨げるネガティブな信念、感情、自己中心的で依存的な考え方、あらゆる「分離感」を指します。

錬金術における「変容」は、密閉された容器の中である物質が死に、その後完全に新しいものとなって再生することを意味しますので

象徴的に「変容」するためには必ず「死と再生」のプロセスが必要です。

死と再生の象徴は、ヨーロッパの文化背景においては「イエスの死と復活」ですが、イエスが死に際して語った言葉の中にこのようなものがあります。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(神よ なぜ私を見捨てたのですか?)

(マタイ27‐46)

 

これは、イエスが人間として最も受け入れがたかったことを象徴していると同時に、人間が共通して持っている、最も受け入れがたいものを表しているように思います。

私たちが誰しも持っている鉛である「人間の弱さ」や「人間の限界」。

これをイエスは受け入れ、変容させ、復活という錬金術が成就したわけです。

私はイエスの物語の中でも、この場面がとても好きですが、それは、イエスが死の間際に神の力を振すのではなく、人間的な弱さを見せて、そこから、人間の栄光や尊厳は決して神のような力を得て、振りかざすことではないのだと示してくれているからです。

イエスが死を克服するために死を受け入れたように、私たちの人生においても、「自我」が象徴的な「死」を体験することによって、魂が再生し、さらに大きな目的やさらに広い世界へと自分を拡大成長させていくことが出来ます。

そのためにも恐れずに自分の弱さや欠点を受け入れ、「金」を得ることは大切です。

 

〈大いなる作業〉は、あなたとともにあり、あなたの中にあり、次のように存在する。それは、あなた自身の中に常に存在するのであるが、あなたがそれを一度見いだしたならば、陸であれ海であれ、あなたがどこにいても、あなたはいつでもそれを持っている

有名な錬金術師であるとされるヘルメス・トリスメギストスの言葉

 

ヘルメス・トリスメギストスの洞察によれば、錬金術とは「本質」を知り、それを手にするためのプロセスであると言えます。

弱さや欠点を材料として変容のプロセスを起こし、やがて自己の本質へと目覚めることが、人生における錬金術と言えるでしょう。

 

 

本当の自分へと目覚めるための自己解放プログラム

 

 

 

 

 

本当の自分、自己の本質について理解する氣功師養成講座

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