心(マインド)と気功

氣功で自分の人生を生きる~中観に生きて縁起世界を輝かせる

空観に至り、この世界の本質は情報であることを知る

中国の古い哲学では、万物を形作り、動かしているのは「氣」であると教えています。

氣功を理解していくと、「氣」とはまさに「情報」であるということがわかります。

そして、私たちが生きているこの世界はすべて情報によって成り立っていることもわかります。ただし、このことは理屈で理解するのも簡単ではないので、頭ではわかっても、それを腑に落とすまでには時間もかかります。

氣功をよりよく使いこなすために、まずは仏教でいうところの「空観」を知るというところから初めて見るのも良いでしょう。

「空観」とはこの世界が「空」だと理解する境地です。

この世界は自分の意識によって作られている、いわば実体のない幻想世界であり、現代風にいうならバーチャルリアリティにすぎないと理解することです。

私たちが体験する現実はすべて、五感と言語情報が脳内で処理されることによって生じるのですから、感じる、味わう、嗅ぐ、見る、聴く、理解するといったことを通して体験される世界は情報によって生じているのです。

情報が先行し、それに合わせて物理があるという、これまで私たちが慣れ親しんできた世界観とは真逆のパラダイムをまず受け入れるとことからはじめていきましょう。

これは、情報を扱う技術である氣功を使いこなしていくためには必ず理解する必要のあるパラダイムです。

情報が物理を生むということを理解するということは、あると思えばあるし無いと思えば無い、ただそれだけのことだと理解することですが、しかしこのことを理解すると、一種のむなしさがおそってくることがあります。

この世は情報でできている=この世界は幻想だ=この世界が空であることを理解できた=悟った!!→→→でも、それって虚しくない?

こうなってしまうと、この世を生きることは虚しいものだ というところで行き詰まってしまいます。

なぜ虚しさを感じてしまうかというと、この世界が自分の意識で生み出されているだけであるということを悟ることで自分の生きる意義が完結してしまうように錯覚するからです。

この世界が情報でできた、実体のない幻想であることを知ったところで、本当に人間を理解したことにはなりません。

人間はそもそも自己完結の存在ではないのです。関係性の中でこそ存在することができるものなのです。

 

仮観に至り、どうせなら最高の生き方を選択しよう!

いくらバーチャル世界に過ぎないとしても、あなたがこの世界で肉体を持って体験することは素晴らしく刺激的でまたとない一瞬一瞬の積み重ねであることには変わりありません。

私たちは「この世」または「物理世界」というテーマパークで様々なアトラクションを体験しているともいえます。

喜びも悲しみも楽しみも苦しみもその本質が空だからこそ味わえるし、肉体があるからこそ痛みも快楽も味わえます。

いくら空だといっても、切なくも美しいかけがえのない世界、それがこの物理世界です。

そんなこの世に生まれたからには、そこで自由に生きよう、精一杯生きようと思う境地が「仮観」です。

仮の世界だからこそ、仮の世界における自分を十分に生きよう!ということです。

ここに至って人は「自由」であり、それぞれの存在に「役割」や「存在意義」があるという価値観を獲得することができます。

自分だけの価値や自分らしさ、自分の使命や役割を果たしたいと思うことで、自分が決めた自分の生き方を選択することが可能になり、自分で自分の生き方に責任をもち、自分で自分の人生や世界を創造していくことに、このバーチャル世界の意義を見いだすのです。

しかしながら、仮観だけを突き詰めれば、この世はアニメやRPGのような何でもありの世界を自分で創り出してもいいということになり、極論すれば、殺人だってオッケー、戦争?オッケー!!だってバーチャルだから… という発想を生み出しかねません。

かつてのオウム真理教の事件がそうでした。

仮観を理解することは大切ですが、仮観だけでも、やはり人間の存在意義を十分に説明できないのです。

 

空観と仮観を統合し、中観に生きて「空」を知る

空観と仮観は、この世は幻想であるという世界観を捉える、虚と実のあり方を示しています。

一方は「空」を虚として捉え、一方は「実」として捉えるのですが、そのどちらか一方の観点だけでは人間という存在を把握しきれません。

そこでこの空観と仮観の観点を統合していく必要があります。

空観にしろ、仮観にしろ、いずれもが「自分」を中心にした宇宙だけを見ていて、結局は自分ありきの世界だけしか見ていません。

なので、この世界は実体のないバーチャルな世界だということを理解しても「自分」への執着から離れられずに、虚しいと感じてみたり、独りよがりな価値観を押しつけたりすることになります。

ここに決定的に欠けているのがこの世界を「縁起」でとらえる視点です。

「空」とは、縁起を理解して始めて理解できる境地です。

縁起とは、万物はすべて関係性の中でしか存在しないという釈迦の唱えた存在論です。

関係性の中でのみ存在するからこそすべては実体がないと言えるし、この世界の一つの存在が存在し得るためには、それ以外のすべての存在が必要なので、万物はすべてがつながっていて、存在することに等しく意義が在り、一つ一つがかけがえのない存在であると言えます。

自分を存在しさせているのは自分以外であるということに思い至り、自分も他者も同等に大切であることが理解できます。

さらには自分というものも(実体が)無いのであるということになり、自分というものへの執着がない状態で世界を観るようになります。

自分とは別の存在だけれど、それは錯覚であって、自分以外のすべての物はすなわち自分自身に他ならないと理解できるわけです。

ここに至れば、他者の幸せのためにこの世界を創造することがすなわち自分の幸せであり、自分の幸せを追求していくことと他者を利することは同義のこととなります。

私たちの生きる世界とは、自他の区別(分離)の中でしか存在できないものです。現実は自我意識が無ければ体験することはできないからです。

分離がなければ体験や認識は生じようがありません。

言い換えると、分離した意識で認識できるものはすべて実体がない「空」であり、すべての根本には「空」があります。

つまり、「空」からすべてが生じ、すべては「空」に還るのです。

すべては空であり、空だけがあるのです。

だからこそ、この物理次元に生きることの魅力は、空であるがゆえにすべての創造があることを理解して、神(創造者、創造原理)としてこの縁起世界をよりよいものにするために生きることなのです。

 

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