心(マインド)と気功

地獄の先に何があるのか、進み続けた者にしかわからない

2022年10月29日

生きることは、楽じゃありません。問題や苦しみの連続です。

よく、毎日毎日を安楽に生きるという意味で、毎日幸せに過ごしたい、楽しみながら人生を送りたいと言う人がいますが、そんな人生はありえません。

人間である以上は生きることの大変さや苦しみや辛さと無縁でいることはあり得ないのです。

時に、追い詰められてささやかな幸せを願うしかなくなるほど、理不尽なことも、不公平なことも、なぜ私が?と思うような出来事だらけと言ってもいいくらい、生きるということは思い通りにはいかないし、楽なことではありません。

悟ったからといって、無為自然を理解したからと言って、時空間にとらわれた生身の身体で人生の大変さから逃れられるわけではないのです。

だから、みんな癒されることや救われることや守られることを求めずにはおれなくなるのでしょう。

誰かから救いの手がさしのべられることや、幸運が舞い込むことや、安心を保証されることをいつも待っているのです。

でも、安心や幸運続きの人生なんて本当はあるわけがありません。

人の人生は基本的にみんな奴隷からスタートします。

大人になったころにはすでにみんな自分以外の誰かの価値観や自分が決めたわけではない何かの基準や与えられた枠組みに支配されて生きている奴隷となっています。

奴隷で生きていることは甘い毒薬を飲まされ続けているのと同じです。

誰かの言うなりになっていることほど楽なことはないけれど、でも自分の本当の気持ちや意志をひた隠したり、押さえつけたり、否定したり、無視したり、気づかないふりをして過ごさなければいけないからです。

その自分の中の「不自然」がじわじわと自分を苦しめる。

その結果、身体も心も疲れ果ててものすごく生きることが苦しいことに気がつくのです。

でもだからといって、その奴隷を辞める勇気や理由もない。たいていの場合がそうです。

自分がずーっと生きてきた枠組みから出たり、慣れ親しんだ価値観やルールを逸脱したり、反抗したり、抵抗したり、そういうタブーを犯すのは、それはそれでものすごく怖いし、労力が必要なことだし、人から受ける非難が恐ろしい、なにより、そうしたからって本当に自分は何か違う世界を見れるのか、幸せになれるのかその保証はどこにもないと感じて生きています。

壁の中で与えられた秩序に守られて暮らした者にとっては壁の外は守ってくれるものも、どうしたらいいか教えてくれるものもない、荒野です。

頼れるのも信じられるのも自分だけ。

誰も助けてはくれない、自分でいつも考え選択し決断をする、そういう環境なのです。

そんなリスクを冒してまで人生を変える必要があるのか?いや、そこまで自分は求めていない、この秩序の中で安穏を保証出来たらいいんだ… と多くの場合は思うかも知れません。

壁の中から壁の外の世界をいろいろと想像して、こうだったらいいな、ああだったらいいな、でも自分の分をわきまえて生きなきゃ、だって今でも十分幸せだから… と思って過ごすのが一番無難かも知れません。

ちょっとした苦痛には目をつぶってやり過ごせば、おとなしくしてればとりあえず無難に生きていける。

でもその発想自体がまさしく「奴隷」的であると言わざるを得ません。

だけど、病気とか事故とか倒産とか、被災するとか、生きることに直接関わるような人生の危機に際して、やっと私たちは考えざるをえなくなります。

これからどうしよう
ホントにこのままでいいのか
このままだと死んでしまうかも知れない
なにが私をここまで苦しめるのだろう

今までどおりの生き方に戻ることができないくらいの出来事が起きたとしたら、それは今まで通りじゃない方法を考える必要があるのです。

これまでの自分の生き方を否定されるような出来事が起きたとしたら、何か新しい別の方法を見つける必要に迫られます。

そしてはじめて私たちは壁の内側に自分の居場所を探してももうどこにも自分を救う方法や安楽な居場所はないのかも知れないと思い始めます。

ここで生きるのはもう嫌だ、限界だと心の奥深くから衝動がわいてきて、身体が悲鳴を上げるのです。

なんでこんなことになったんだろう

心も身体もむしばまれ、徹底的に自由を奪われ
でも
みんな何かに背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ
たいていその何かは自分の意志じゃない
他人や環境に強制されて仕方なくだ

ただし

自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
その地獄の先にある何かをみている
それは希望かも知れないし、さらなる地獄かも知れない
それは進み続けた者にしかわからない

エレン・イェーガー「進撃の巨人」

壁を越え、壁を壊して外に出るには、自分で自分の背中を押すしかありません。

壁の外に広がる荒野や茨の道を一人で行く勇気と、その道の途中で死んでもいいという覚悟と勇気が必要です。

それでも、自分の生き方に疑問を感じ、いても立ってもいられなくなった人は、どうしても壁の縁に立たざるを得なくなるのです。

そして勇気を出して飛び出すか、恐怖に引きずられて元の場所に落ちていくか選択と行動をせまられます。

この時の猶予は長くない。一瞬で決めなけれは開いた「狭き門」は閉じられる。

壁の中も壁の外も大変なことには変わりがありません。

でも決定的に違うことがあります。

それは壁の外に自分の道を見つけようとするあなたは「自由」と「未来」という力を手にすることができるということ。

自分の価値を自分で決める権利と、何に命をかけるのか自分で選択する権利と、未来を自由に選ぶ権利を手にすることができるのです。

壁の外に未来を求めようとするとき、地獄の道の先に無限の可能性を見ることができます。

それはすべてあなたの自由意志と責任のもとに選ぶ何かには違いありませんが、少なくともあなたの人生はその何かによって躍動することでしょう。

でも、あなたが壁の外を自分の目で見ようとしない限り、壁を壊して外に出ようと思わない限り、その何かは絶対に見えないし手に入りません。

それがどんな生き方であれ、壁の外に道を求めたあなたはもはや弱者でいられません。

奴隷でもなく身も心もむしばまれた病人でもなく、一人の創造者として自分だけの生命の価値や意味をこの世界に示しながら人生を突き進む巨人となるのです。

壁の外と壁の内側とどちらがいいとか、どちらがオススメというようなことはありません。どちらも等しく人のあり方です。

どちらが楽とか幸せなどという基準はないのです。そんな基準を求めている限りは一生壁の中です。

自分の苦しみや痛みを誰かにわかって欲しい、傷ついた自分を労って欲しい、愛して欲しい、楽になりたい、連れて行ってほしい、 と誰かや何かに救いや助けを求めながらも住み慣れた壁の中の地獄に安住する家畜や奴隷として病んでいく人生か、安住を捨て、奴隷や家畜を辞めて病人を辞めて、壁の外に自分だけの道を開拓していく孤独な茨の道(のように壁の中からは見える)を行くのか、人生にはどちらかしかありません。

どちらを選択するのか、それはあなたの完全なる自由であり、実はあなた以外の誰も選ぶことはできません。

 

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