縁起とは、「縁によって起こる」という釈迦が開いた悟りの教えで、すべての物事は「縁」と呼ばれる関係性の中にしか存在していないという考え方です。
自分というものを理解しようとすると両親や自分の国や、出身校、専門性、友人、恋人、趣味、年齢、性別など
自分にとって重要と思われる自分以外の何かとの関係性を語ることによってしか説明ができないし、理解ができません。
すべての「私」という存在は、自分以外が有ってはじめて存在可能であるということです。
また関係性の中で存在するということは物事は相対的に変化するということでもあります。
「私」という存在も、相手が親の場合は、私は子供であるということになるし、相手がパートナーであれば夫や妻、恋人ということになります。
「縁起」が示している重要なポイントは二つです。
一つはこの世界のすべては実在していないということです。
もう一つは、絶対性や永続性の否定です。
「私」は私以外の存在との関係によってはじめて存在できるのだとしたら
「私」以外のものがなかったとしたら「私」はそもそも存在していないということになります。
それは「実在」とは言えません。
またそのような関係性の中にあるということは、それは相対的であるということです。
相対的であるということは条件によって変化するということなので、この世に絶対的なものや永続するものはないのです。
例えば「神」のような絶対的価値や、永続的価値を釈迦は否定しました。
神という存在もやはり縁起の中にしか存在していないというわけです。
仏教用語である「諸行無常」や「諸法無我」とはそのような縁起の世界観を表現しています。
縁起の世界観は陰陽論を理解することでより捉えやすくなります。
陰陽論が説く本質もこの世界を生み出している陰と陽は相対的であって、絶対的ではないからです。