気功について

氣功的瞑想とは何か

―― マインドフルネスとの本質的な違い

はじめに ― いま瞑想は「技法」によりすぎている

近年、瞑想は特別なものではなくなりました。

マインドフルネス、呼吸法、瞑想アプリ、ヨガの瞑想時間…。

“集中する方法”
“リラックスするための技法”
“心や体を整える習慣”

一般的に、瞑想はこのように理解されることが増えています。

けれど、三和氣功が伝える瞑想は、この「技法としての瞑想」という枠には入りません。

──瞑想の本質は、“心や体を扱う技法”ではありません。

この理解が、三和氣功の瞑想、氣功的な瞑想の本質へとつながります。

 

 

 

一般的な瞑想とは何か(やさしい定義)

一般的に瞑想には、多くの科学的裏づけがあります。

  • “今ここ”に注意を戻す練習
  • 思考の自動反応から距離を取る
  • 感情に巻き込まれにくくなる
  • ストレス軽減や集中力向上の効果

これらは確かに大きなメリットです。

しかし、一般的な瞑想はあくまでも「心の働き(マインド)」を対象にした実践であり、扱っている次元は“心の中の世界”です。

つまり、意識の働き認知のクセに気づくことが中心で、身体や魂、存在そのものの深層には届きません。

 

一般的な瞑想は「技法」としての入口にすぎない

世の中でよく使われている瞑想の技法には、こんなものがあります。

  • 集中呼吸瞑想:呼吸に意識を向け、雑念を手放す
  • ボディスキャン瞑想:身体の感覚を一つずつ観察する
  • 慈悲の瞑想:自他に思いやりを向ける
  • 歩く瞑想:歩く動作に意識を集中する
  • マントラ瞑想:特定の言葉を唱えて心を整える

また、瞑想の三本柱として姿勢(調身)・呼吸(調息)・心(調心)といった枠組みもよく語られます。

これらはどれも、心と身体を整えるための“入口としての道具”として役に立ちます。

しかし、どれほど深く実践しても対象としているのは“心の中で起きている働き”にとどまります。

ここが、三和氣功の瞑想と決定的に違うポイントです。

 

氣功的瞑想とは ― 心の内側ではなく「観ている主体」に戻る実践

氣功には古くから「静功(せいこう)」と呼ばれる、静かに立ち、静かに座り、ただ身体の内側で氣の流れを味わう稽古があります。

私自身、氣功歴が長くなってきた頃、馬先生から繰り返しこう言われました。

「動くより、まず静功をやりなさい。
 静まらない限り、氣功は深まらない。」

当時の私は未熟で、氣をもっと動かしたい、分かりたい、技法を上達させたいという思いが強く、なぜ“静”ばかりを求められるのか、正直分からない時期もありました。

しかし今なら、それがよく分かります。

 

 

静功は「観照への入口」

静功は、単なる“技法”でも“姿勢の練習”でもありません。

  • 心のざわつきが自然に沈む
  • 身体が自分の中心へ戻っていく
  • 呼吸が勝手に深まる
  • 氣が静かに巡り始める

静功は、心が静まったあとに見えてくる“本当の世界”への入口なのです。

そして三和氣功の瞑想は、この静功の核心を含みつつも、さらにその奥へ――“観ている主体(観照意識)”へ戻るプロセスを大切にしています。

 

心を整えるのではなく、心を観る側に戻る

多くの瞑想法は「心を整える」「雑念を減らす」「集中する」ことを目指します。

しかし氣功的瞑想は、その方向には向かいません。

氣功的瞑想で起きるのは、

思考があっても良い

感情が揺れても良い

身体がざわついても良い

そのすべてを、ただ観ている側へ意識が戻っていくこと。

静功で整えた身体と呼吸の静けさの上に、そのまま意識がふっと “観照” の位置へ移動します。

ここでは、「心を変えよう」「体を変えよう」とする意図が完全に必要なくなります。

 

“努力しない”ことが意識を深める

観照とは、心をコントロールすることではなく、心の以前にある“観ている意識そのもの”へ還ること。

努力して雑念を消そうとするほど、心は波打ちます。

しかし、身体が静まり、呼吸が深まり、氣が巡っていくとき、意識は自然に静けさへと吸い込まれていく。

ここには技法はいりません。

何も変えようとしない。
ただ“在る”へ戻るだけ。

それが三和氣功の瞑想です。

 

静功から観照へ~技法の先にある「意識のレイヤー」

静功は、

  • 心身の静けさ
  • 氣の自然な巡り
  • 丹田への安定感

をつくり出します。

そこから氣功的瞑想はさらに深まり、

  • 心そのものを観る視点
  • 何かを変えようとしない無為
  • 生命の流れに委ねるタオ
  • “ただ在る”という意識の静けさ

へと至ります。

つまり、静功は技法。

氣功的瞑想は、技法が溶けたあとの“意識の状態”。

馬先生が私に静功を求め続けたのは、この“意識のレイヤー”に至るための基盤を徹底的に育てようとしていたからだと、いまでは理解できます。

 

結論:氣功的瞑想とは?

心を整える瞑想ではなく、心の前にある“観照”へ戻る瞑想。

静功の静けさの上に、意識が自然に“本当の自分”へ帰っていくプロセスです。

そこに努力は要らず、テクニックも必要なく、ただ生命の自然な働きの中へ戻っていく。

これが、三和氣功が伝える氣功的瞑想=観照への道です。

 

氣功的瞑想の最も大きな特徴

― 思考でも努力でもなく、「生命の流れ」が動き出す

氣功的瞑想が、一般的な瞑想ともっとも異なる点は、“氣の自然な流れが働き始める”という体験そのものにあります。

静功を通して心身が静まり、意識が“観照”の位置に戻ったとき、次に起こるのは技法ではありません。

身体の奥で、まるで自分ではない何かが動き出すような――言葉にしがたい繊細な変化です。

 

呼吸が「深める」から「勝手に深まる」へ

氣功的瞑想に入ると、呼吸はコントロールしなくても自然と深まります。

  • 無理に吸おうとしなくても
  • 整えようとしなくても
  • 長く吐こうと意図しなくても

呼吸は、生命のリズムそのものに同調し、“勝手に深くなる”のです。

これは、呼吸を操作しているのではなく、呼吸があなたを「内側の静けさ」に連れていっている状態。

 

丹田が静かに温まり、中心ができる

観照に入ると、下腹部(丹田)が自然に緩み、温かくなっていきます。

丹田が緩むと、

  • 地に足がつくような安定感
  • 重心が下がる安心感
  • 無意識の緊張がほどける

といった変化が生まれます。

これは心の変化というより、氣の流れの回復によって生じる“生命の現象”です。

 

身体意識が開くと「情報空間」が静まる

氣は“情報”でもあります。

身体の感覚が精妙になってくると、周囲の氣の流れや、心の奥の微細な動きが、まるで音のように“聞こえる”ようになる瞬間があります。

身体意識が開くと、外側の情報(雑念・不安・周囲の氣)が静まり、内側の情報空間が透明になる。

このとき、現実的な問題に対してもまったく違う視界が開きます。

 

操作がいらないからこそ、「氣」が働く

氣功的瞑想の最も大きな特徴は、何もしないことが調和を生む点です。

一般的な瞑想のように呼吸を整えたり、注意を戻したり、意識を集中させたりする必要はありません。

むしろ、それらの“意図”がなくなったとき、

  • 氣が巡り
  • 呼吸が深まり
  • 身体が整い
  • 心が落ち着き
  • 現実が静かに動き始める

こうした変化が起こります。

これは心理的な効果ではなく、生命そのものの働き(タオ)が戻る現象です。

 

静功 → 観照 → 氣の自然な動き:すべては「自然が働き始める」プロセス

静功で身体を整え、観照で意識が“観ている側”へ戻る。

すると次に起こるのは、あなたが何かをすることではなく、自然が、あなたを通して働き始める。

身体の奥で氣が動き、何もしていないのに呼吸が深まり、心の底に静かな湖のような安心感が満ちてくる。

これが、氣功的瞑想の核心です。

 

だから氣功的瞑想は「努力不要」で深まる

努力や集中が必要な瞑想法は、どうしても“心を使う瞑想”になりやすい。

しかし三和氣功の瞑想では、心の前にある“観照”に入ることで、心そのものの働きが静まり、

氣が働き、自然が整えてくれる。

これが、「氣功の瞑想は、何もしないほど深まる」といわれる理由です。

 

結論:氣の自然な動きは「創造の源」

氣が自然に巡ると、心も身体も現実も、調うべき方向に動き出します。

それは個人の努力や思考によるものではなく、“生命そのものが本来のリズムへ戻った結果”です。

氣功的瞑想が「創造」に直結するのは、氣の静かな調和が、人生全体を新しい方向へ動かしていくからです。

 

無為の瞑想

― 変えようとせず、変わっていく

氣功的瞑想が“特別な力”を持つ理由のひとつは、「変えようとしない」ことによって、すべてが自然に変わっていくという矛盾のような真理にあります。

一般的な瞑想は、どこかで

  • 心を落ち着かせたい
  • 集中したい
  • 雑念を減らしたい
  • ストレスを軽くしたい

といった「目的(=変えたい意図)」を前提にしています。

それは悪いことではないけれど、内側には必ず “今の自分を否定する意識” がわずかに潜む。

この否定が、ほんのささやかな緊張となり、氣が自由に流れることを妨げてしまいます。

 

無為とは “怠慢” ではなく “生命への信頼”

無為(むい)という言葉は、ときに「何もしない」と誤解されます。

しかしタオ(道家哲学)における無為は、

「操作しようとしないことで、本来の自然の働きが戻る」

という、生命への絶対的な信頼を表しています。

あなたが何もしていなくても、呼吸は勝手に続き、心臓は勝手に動き、朝が来れば夜は明けます。

生命は、本来“調和に向かう力”を持っています。

無為は、その力を邪魔しないということ。

 

力を抜くのではなく、力が勝手に抜けていく

瞑想の中でよく言われる「力を抜いて」という言葉があります。

しかし氣功的瞑想では、力を抜こうとする必要すらありません。

観照に入ると、自然に呼吸が深まり、身体が緩み、心が静まり、氣が巡っていく。

そのとき起きているのは、「あなたが力を抜いた」のではなく、 自然が“抜かせてくれた”。

この違いはとても大きい。

努力が介入した瞬間、心は“操作する側”に戻り、氣の自然な働きを妨げてしまう。

無為の瞑想は、努力を手放したときにだけ開く扉です。

 

変えようとした瞬間、変化は止まる:変えようとしないとき、変化は自然に起きる

氣功的瞑想でよく起きる誤解があります。

「心を静めたい」という想いが、もっとも心をざわつかせる。

「リラックスしたい」という意図が、もっとも身体を緊張させる。

「氣を感じたい」という意図が、もっとも氣の感性を鈍らせる。

これは逆説だけれど、氣功の世界ではとても自然なこと。

「変えたい」という意図は、“今の自分はダメ”という無意識の抵抗。

その抵抗が、氣の流れを止める。

だからこそ、三和氣功の瞑想ではこう言います。

「何も変えようとしないでください。自然にまかせてください。」

すると、変わるべきものは変わっていきます。

まるで“生命の流れがハンドルを握り返す”ように。

 

無為が働くと、現実が調っていく

氣が整うと、現実も自然に調っていきます。

それは、

  • あなたが頑張ったから
  • 意図を強く持ったから
  • 感情をコントロールしたから

ではありません。

内側の氣の流れが調和すると、外側の現実はそれに同調する。

それはまるで、風がやみ、湖面がひとりでに静まっていくようなもの。

誰も湖を押さえつけていないし、誰も波を消そうとしていない。

ただ自然が働いている。

瞑想が人生を変えていく本質は、ここにあります。

 

結論:無為の瞑想は「在る」ことが創造を生む

気持ちを変えようとしない。
心を操作しない。
未来をコントロールしない。

あなたが何もしないほど、生命の自然な働きが戻ってきて、必要な変化が起こり始める。

それが三和氣功が伝える“無為の瞑想”です。

変化は“やったから”起きるのではなく、“在る”から自然に開いていく。

これが、氣功的瞑想が「創造」へつながる根源です。

 

心を扱う瞑想と氣功的瞑想の違い

― 同じ「瞑想」という言葉でも、扱うレイヤーが違う

ここまで読み進めてきた方は、すでに感じているかもしれません。

同じ“瞑想”という言葉を使っていても、その目的・扱う領域・働いている力はまったく別のものだということを。

言葉の表面は同じでも、深さの層(レイヤー)が違えば、起きてくる体験や気づきは根本から変わります。

ここでは、その違いを丁寧に整理してみましょう。

 

まずは結論:

「心を扱う瞑想」=一般的な瞑想(アプリやビジネスマンのためのマインドフルネスなど)

氣功的瞑想=「心が生まれる前の意識へ戻る瞑想」

この一文がすべてを表しています。

そして以下の比較は、この“レイヤーの違い”をさらに明確に示すものです。

 

比較一覧(解説つき)

 

  心を扱う瞑想 氣功的瞑想(三和氣功)
主体 心を観察する“私” 心より前にある“観照そのもの”
目的 心の安定・集中・ストレス軽減 無為・観照・生命の自然な働きとの同調
方法 注意を戻す・感情を客観視する 何もしない・在る・委ねる
対象 思考・感情・注意の働き(=心の中) 生命の流れ・氣・意識(=心の前)
到達点 落ち着き・冷静・感情コントロール 静寂・氣の巡り・創造性の回復
変化の動力 意識的コントロール 自然の働き(無為)
深まる方向 心の中の整理 “本当の自分”への帰還

 

解説:「扱う層」が違うことによる違い

① 主体の違い

一般的瞑想では“心を観察する私”が主体になります。

一方、氣功的瞑想では、“心を観ている意識そのもの(観照)”が主体になります。

これは、「鏡を見るか、鏡そのものになるか」の違いに近い。

目的の違い

一般的瞑想の目的は「心を整えること」。
氣功的瞑想の目的は「心を超えること」。

つまり、

  • 心を変えたい → 一般的な瞑想
  • 心から自由になりたい → 氣功的瞑想

という違い。

方法の違い

一般的瞑想は「注意の操作」が中心。
氣功的瞑想は「無為(操作しない)」が中心。

努力の方向がまったく異なります。

深まる方向の違い

一般的瞑想は“心の中”が整う方向に深まる。
氣功的瞑想は“心の前”の静寂へ深まる。

これは、

心理レベル → 生命レベル → 意識レベル

という深まりの違いとも言える。

変化の起こり方の違い

一般的瞑想は「意識的に変えていく」。
氣功的瞑想は「自然が変えていく」。

どちらが上位という話ではありません。

ただ、“起きている現象の次元”が違うのです。

 

この比較が示している本当のこと

一覧表を見ると、単なる技法の違いではなく、「どの次元(レイヤー)の意識を扱っているか」という違いが浮かび上がってきます。

それはまるで、同じ山を登るように見えて、実は別の山の別の頂に向かっているような違い。

一般的瞑想は“心という山”の頂を目指す瞑想。

氣功的瞑想は、その山のふもとを抜け、“意識そのもの”の頂へ向かう瞑想。

このレイヤーの差が、体験のすべてを変えていきます。

 

タオの視点

― 生命そのものが、すでに瞑想している

氣功的瞑想を深めていくと、あるときふと気づく瞬間があります。

「私が瞑想しているのではなく、 生命そのものが、私を通して働いているだけなのだ」

ということに。

これは技法ではなく、努力でもなく、理解によって得られるものでもありません。

観照が深まり、無為が働き、心が静けさに溶けたときにだけ開く“気づき”です。

 

自然は、努力していない

海は努力して波を作っていません。
風は意思を持って吹いているわけではありません。
夜は意図的に暗くなり、朝は頑張って明るくなるわけでもありません。

自然の営みはすべて、力まず、操作せず、ただ存在している。

その“存在の状態”が自然な働きを引き起こしています。

瞑想が深まるというのは、この自然のリズムと“同じ周波数”に意識が調和するということ。

 

呼吸はあなたを生かそうとしている

あなたが眠っていても、呼吸は動き続けています。

あなたが忘れていても、心臓は止まらずに動いています。

あなたが何をしていようとも、生命の働きはあなたを生かす方向へ動き続けています。

この働きこそが タオ(道)

氣功的瞑想とは、この“生命の働き”に委ねること。

あなたが瞑想するというより、タオがあなたを瞑想させているという表現の方が近いのです。

 

「する」瞑想から、「起きる」瞑想へ

一般的な瞑想は“する瞑想”として語られることが多いです。

  • 呼吸に集中する
  • 注意を戻す
  • 姿勢を整える
  • 感情を手放す

しかし氣功的瞑想の深まりは、その対極にあります。

集中しようとせず、注意を戻そうとせず、感情をコントロールしようとしない。

すると、生命の方があなたを静けさへ引き戻してくれます。

まさに「瞑想が起きる」状態です。

 

生命は、あなたを自然に“中心”へ戻す

あなたが多少ざわついていても、何かに悩んでいても、外側が慌ただしくても、タオは常にあなたを本来の中心へ戻そうとする働きを持っています。

氣功的瞑想とは、この働きを邪魔しないこと。

呼吸が勝手に深まり、姿勢が勝手に整い、氣が勝手に巡るのは、あなたが上手に瞑想できたからではなく、生命の自然な力が、あなたの中で目を覚ましたから。

 

結論:あなたは「瞑想する存在」ではなく「瞑想が起きる場(フィールド)」である

瞑想は特別な技ではありません。

人は本来、静けさと調和の中で生きる存在です。

氣功的瞑想とは、その本質へ戻る、“還る道”。

心を動かし、氣を動かそうとするのではなく、心も氣も、自然が動かしてくれる場所へ意識を戻すこと。

それが、タオの瞑想です。

 

三和氣功の瞑想会は何を大切にしているのか

― 技法ではなく「状態」をひらく場として

ここまで読んでいただくと、三和氣功の瞑想が一般的な“瞑想の技法”とは異なる理由が自然に理解できるかもしれません。

三和氣功の瞑想会で大切にしているのは、特別なやり方でも、完璧な姿勢でも、集中力でもありません。

それはただ一つ。

自然があなたを通して働くための「状態」をひらくこと。

技法ではなく、“状態”を整えることこそが三和氣功の本質です。

 

静寂 — すべての始まりの場所

瞑想の静けさは、“何も起きない空白”ではありません。

静寂とは、生命がもっともよく働くためのもっとも豊かな土台です。

静寂が深まると、

  • 呼吸は勝手に整い
  • 心は勝手に静まり
  • 生命の流れ(氣)が自然に動き出す

すべてが静寂から始まります。

三和氣功の瞑想会では、まずこの“静寂の場”を一緒に育てていきます。

 

観照 — 心を整えるのではなく、心を観る

三和氣功の瞑想会では、雑念を減らしたり、心を静めようとしたりしません。

むしろその逆です。

  • 思考があっても
  • 感情が揺れても
  • 身体がざわついても

それを変えようとせず、ただ観ている側へ意識を戻す。

観照とは、「整える私」になることではなく、「観ている意識そのもの」に還ること。

瞑想会では、この観照の位置へ自然に戻れるような場づくりを大切にしています。

 

無為 — 操作しないとき、自然が働く

瞑想の中で一番むずかしいのは“頑張らない”ことです。

三和氣功では、何かを変えよう、よくしようとする意図が氣の自然な働きを妨げてしまうと考えています。

だからこそ、何も変えようとせず、ただ生命にまかせる。

この無為の姿勢を、瞑想会の中で体験できるようにしています。

 

丹田 — いのちの中心へ還る

丹田は“氣の源”であり、心の中心でもあります。

三和氣功の瞑想では、強調しすぎるわけではなく、自然な流れの中で丹田が静かに開き、温まり、“軸”ができていくのを味わいます。

この丹田の安定が、氣の働きをスムーズにし、日常の安心感や精神的な土台につながっていきます。

 

氣の流れ — 生命のリズムを思い出す

瞑想が深まると、呼吸でも思考でもなく“氣そのもの”が動き始めます。

  • 身体の奥の微細なあたたかさ
  • 何かがほどけていく感じ
  • 脳の緊張が溶けるような感覚
  • ふっと肩が軽くなる瞬間

これらはすべて、氣が自然に巡り始めた証です。

氣の流れは、あなたを「中心」に戻す働きを持っています。

 

タオ(自然のリズム) — 生命そのものとの調和

三和氣功の瞑想会で目指しているのは、個人の努力や集中ではありません。

タオ(道)
――自然が万物を調和へ導く働きそのもの――

 

そのリズムに、意識と身体が静かに同調していくこと。

すると、

  • 心の抵抗が静まり
  • 現実への過度な執着が緩み
  • 判断が減り
  • 呼吸が深まり
  • 身体が軽くなり
  • 氣が巡り
  • 自然に涙が流れることもある

タオが働くと、すべてが自然に調っていきます。

三和氣功の瞑想会は、この“タオの働きが起きる場”として丁寧に設計されています。

 

結論:三和氣功の瞑想会は、あなたを「自然へ」戻す場所

技法を学ぶ場ではありません。
集中する場でもありません。

あなたのいのちが本来持つ静けさへ静かに帰っていくための場。

人生を頑張り続けて疲れたとき、心がざわついて止まらないとき、何かを変えたくても変わらないとき――

三和氣功の瞑想会は、あなたを“本当の自分”へ戻す小さな入口であり、大きな静けさです。

 

おわりに

― 心を変えるのではなく、“本当の自分”へ還るための瞑想を

瞑想という言葉は、いまではあまりに多くの意味で使われています。
リラックスの技法、集中力の訓練、セルフケア、メンタルコントロール――。

どれも大切な実践です。
それぞれに価値があります。

けれど、三和氣功が大切にしている瞑想はそのどれとも少し違う場所にあります。

それは技法ではなく、“努力して心を変える方法”でもなく、まして「願望実現の道具」でもありません。

瞑想とは本来、心という小さな部屋を整えるためのものではなく、心が生まれる前の“広大な静けさ”へ戻る道。

あなたの奥には、思考も感情も届かないほど静かな、深く透明な場所があります。

そこには、

  • 正しさも
  • 怖れも
  • 比較も
  • コントロールも
  • 頑張りも

何ひとつありません。

ただ、
在る。

それだけです。

三和氣功の瞑想は、あなたをその“在る場所”へ戻すための道。

静功で身体を整え、観照で心を超え、無為で自然にゆだね、氣の流れが働き、タオが生き始める。

その瞬間、あなたは“瞑想する人”ではなく、*瞑想が起きる「場(フィールド)」となります。

心を変えるのではなく、“本当の自分”へ還る。

その静けさの中にこそ、人生を調え、創造していく力が静かに息づいています。

三和氣功の瞑想会は、その力を思い出すための小さな灯火であり、あなたの内側に広がる大いなる自然(タオ)へ続く入り口です。

どうか、静けさの中であなた自身の“生命のリズム”に戻ってください。

そこからすべてが始まります。

 

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