三和氣功コラム「静けさの中にある力」シリーズ 第2回
― すべての揺れを包みこむ、氣の円環の中心へ。―
第1章 外の静けさを求める心、内の静けさに還る氣づき
私たちは、心の内に静けさを求めるとき、
まず「外」を整えようとします。
環境を静かにし、音を消し、人との関わりを減らす──。
けれども、どれほど外の世界を静めても、
心の中にざわめきがある限り、真の静けさは訪れません。
外の静けさは、内の静けさを映す鏡にすぎません。
外の状況をいくら変えても、
内側が緊張していれば世界は騒がしく感じられます。
逆に、心が整っているときには、
人の声も、車の音も、雨のしずくさえも、
すべてがひとつの調和の音に聴こえてきます。
氣功では、「静けさ」とは止まることではなく、
氣が滞りなくめぐっている状態を指します。
氣が内側で調っていくと、
外の世界がどうあっても揺らがない中心が生まれます。
その中心こそが“中庸”のはじまりです。
静けさは、外にあるのではなく、
あなたの内に思い出されるもの。
第2章 中庸とは、陰陽がめぐる円の中心
氣功の世界では、すべての現象は陰陽の呼吸で成り立っています。
昼と夜、吸う息と吐く息、動と静、喜びと悲しみ──
それらは対立するものではなく、
ひとつの円を描くように交互にめぐっています。
陽が極まれば陰に転じ、陰が満ちれば再び陽へと還る。
この循環が滞りなく流れているとき、
人の心も身体も調和しています。
けれど、どちらか一方を良しとしてもう一方を避けようとすると、
氣の流れは片寄り、生命の円環が歪んでしまいます。
「いつも穏やかでいたい」「悲しみを感じたくない」──
その願いさえも、静けさを妨げる波になってしまうのです。
中庸とは、陰陽のちょうど真ん中。
どちらにも偏らず、どちらも観ている意識。
氣功の実践とは、この「円の中心」に還ること。
喜びの中でも、悲しみの中でも、
そのどちらにも流されずに“めぐる全体”を観ているとき、
心は自然に調い、氣は再び円を描き始めます。
中庸とは、揺らぎの中にありながら、
その中心で静かに息づいている生命の均衡点なのです。
第3章 調えようとしないことが、最も整う道
人は、うまくいかないときほど「どうにかしよう」とします。
心を静めよう、氣を整えよう、人生を正しい方向に戻そう──。
けれどもその“整えようとする力み”こそが、
氣の流れを硬くしてしまうことがあります。
本来、氣は常にめぐっています。
どんなに乱れたように見えても、
その下では、宇宙の大きなリズムが働いています。
だから、私たちが「整えよう」と意図した瞬間、
氣は「整っていない」という前提の上で動こうとする。
それが、氣の滞りや、心の緊張を生むのです。
無為とは、何もしないことではなく、
自然の流れにまかせる智慧。
氣功で言う“無為自然”とは、
意識を操作することをやめ、流れに身をゆだねること。
呼吸を整えようとせず、ただ見守っていると、
呼吸は自然に深く、静かに調っていきます。
それは、自分という小さな意志を超えた、
大いなる氣の働きが再び動き出す瞬間です。
努力して静けさを作るのではなく、
「静けさが訪れるのを信頼する」──
それが、最も深く整う道なのです。
第4章 中庸を乱すもの ― コントロールと比較の心
中庸の静けさを保つことが難しいとき、
そこにはたいてい“何とかしよう”という心の動きがあります。
「もっと良くなりたい」「他の人のようにうまくやりたい」──
そんな意図は一見前向きに見えて、
実は氣の流れを外に向け、中心から遠ざけてしまいます。
氣は、意識が向いた方向に流れます。
他者との比較や、未来への不安に意識が向くと、
氣は散り、今ここに在る力が薄れていきます。
そのとき私たちは、
本来調っているはずの世界を「不完全」と錯覚してしまうのです。
中庸を乱すのは、外へ向かう意識。
中庸を保つのは、内に還る呼吸。
誰かと比べる必要も、正そうとする必要もありません。
氣功の視点から見れば、
あなたがいま感じている揺れもまた、
氣がめぐる自然なプロセスの一部です。
その流れを止めずに観ていると、
やがて陰と陽が融け合い、中心が再び見えてきます。
静けさは「得るもの」ではなく、
氣が本来の円に戻ることで“思い出される”のです。
第5章 中庸に還る3つの実践
中庸の静けさは、特別な修行によって得られるものではありません。
それは、日々の呼吸とともに、いつでも思い出すことができます。
ここでは、氣を調え、心を中心に戻すための三つの基本実践を紹介します。
① 呼吸を観る ―「間(ま)」に氣がめぐる
吸う息と吐く息のあいだには、
ごく短い「間(ま)」があります。
そのわずかな静止の瞬間に、氣は天地をめぐっています。
この“間”を感じる練習をするだけで、
心は自然に鎮まり、氣が流れ始めます。
呼吸の「間」に、あなたの中心がある。
アクティブメディテーション(三和氣功のオンライン実践の場)でも、この「間」を観る実践を行います。
それは、呼吸と自分との境界を感じ取りながら、
やがて“観ている自分”をも手放していくプロセス。
呼吸と「間」を観ることから始まり、
最終的にはその観る行為すら静かに委ねる。
そのとき、呼吸と私、内と外、すべてがひとつに溶けていきます。
「観る」を超えて「委ねる」──そこに中庸の静けさが生まれる。
② 丹田に氣をおろす ― 身体に還る
不安や思考が頭にのぼると、氣は上に偏ります。
両手を下腹(丹田)に添え、
吐く息とともに意識をゆっくりと下へおろしましょう。
思考が静まり、
「いま、ここに在る」感覚が戻ってきます。
氣が丹田に根づくと、
外の出来事に揺れない安定が生まれます。
③ 観照する ― 良し悪しなく見守る
氣功の根本は“観る”ことにあります。
喜びも悲しみも、快も不快も、
判断せずにただ観ていると、
感情の波は自然に静まります。
それは無理に止めるのではなく、
流れが円環へと戻る自然な作用です。
観照とは、氣の流れを信頼する姿勢。
この三つの実践を繰り返すことで、
中庸は“意識の特別な状態”ではなく、
“生き方の呼吸”へと変わっていきます。
外に静けさを求めるのではなく、
どんな時も自分の内に還れること。
それが、中庸に生きる第一歩です。
第6章 中庸に立つと、世界が調い始める
中庸とは、静止でも均衡でもありません。
それは「どちらにも偏らず、どちらにも流れうる」
自由な中心の働きです。
静と動、陰と陽、外と内──
どちらにも属さない意識の場に立つとき、
私たちは世界とひとつの呼吸をしていることに気づきます。
人生には、反転の瞬間があります。
それまで正しいと思っていた価値観が崩れ、
苦しみや喪失を通して、まったく逆の見方が開かれるとき。
それは、光と闇、善と悪、成功と失敗の境界が溶け、
「すべてが必要だった」と感じられる瞬間です。
この理解が起こると、
外の世界を整えようとする力みが抜け、
内なる流れとともに在ることができるようになります。
中庸とは、世界を変える力ではなく、
世界と調和する智慧である。
呼吸が整えば氣が調い、
氣が調えば現実が整います。
中庸に立つことは、
「私が整える」のではなく、
「世界が自然に調っていく」ことを許す姿勢なのです。
静けさの中にある力は、
外へ押し出す力ではなく、
在ることそのものが働く力。
中庸とは、その力がもっとも澄んで流れる場所です。
世界を変えようとしなくても、
あなたが静けさに立つとき、
世界はあなたを通して調っていく。
あとがき
このシリーズ第2回では、
「観る」ことから「委ねる」ことへの転換を通して、
静けさの奥にある中庸の智慧を見つめてきました。
それは、何かを止めることでも、
我慢して均衡を保つことでもありません。
中庸とは、世界と呼吸を合わせながら、
その調和の中に生かされていることを思い出す道です。
外の動きが止まるとき、
内側の氣はより深く流れます。
静けさの中にある力──
それは“何もしない”ときに、
最も大きく働いているのかもしれません。
中庸の静けさは、あなたを通して世界を整える。
どう生きるかではなく、どう在るか。
それが氣功の本質です。
関連リンク
🌕 本当の自分を生きる氣功プログラム
中庸の学びを、実践として体験する。
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📘 シリーズ案内
~三和氣功コラム「静けさの中にある力」シリーズ~
1️⃣ 反転がもたらす目覚め
── 痛みを通して気づく「変化の法則」
2️⃣ 中庸に立つと、世界が調い始める
── 観ることから委ねることへの転換
3️⃣ 静けさが世界を動かす
── 無為の力、“在ること”が働くとき
―
馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。