太乙のゆらぎ──宇宙が「自らを知る」瞬間
古代中国の宇宙論では、万物は「無極(むきょく)」──形も境界もない静寂の虚空──から生まれると説かれています。
この無極に微かな動きが起こるとき、「太極(たいきょく)」が生じます。
そして、太極がさらに自己の内側に作用するとき、「太乙(たいいつ)」という概念が現れます。
太乙とは、“宇宙を貫く一なる氣”の意識的なはたらき。
道家では「太乙が万物を貫き、生命を養う」とされ、『太乙金華宗旨』にはこう記されています。
「太乙とは、無の中の有なり。有の中にしてなお虚なる者なり。」
つまり太乙とは、静寂の中に生まれる虚空の氣。
その氣が分かれ、流れ、凝り固まりながら、陰と陽という二つの方向性──収縮と拡張、静と動──を生み出しました。
『易経』はこれを、次のように表現します。
「易は太極を生じ、太極は両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。」
ここに描かれているのは、宇宙が自己を展開しながら“多様な世界”を形成していくプロセスです。
この「太乙・太極・両儀(陰陽)」の展開は、宇宙が自己を知り、自己を体験するための運動といえるでしょう。
ひとつだったものが「二」となり、「二」の間に張力が生まれ、そこに氣の循環が始まる。
この“分離”こそ、宇宙が動き出す第一歩だったのです。
分離が生み出す「体験」と「個の誕生」
私たちは「他」との違いによって、自分を知ります。
「私」と「あなた」、「内」と「外」、「好き」と「嫌い」。
この対比の中でこそ、感情や思考が芽生え、世界が立ち上がっていきます。
もし光しか存在しなければ、光という概念は意味を失います。
闇があるからこそ、光は輝きを持つ。
悲しみがあるからこそ、喜びは深くなる。
分離とは、欠陥ではなく創造の条件。
矛盾があるからこそ、調和という働きが生まれるのです。
矛盾こそが生命を動かす
道家の思想では、「道(タオ)」そのものが静と動のせめぎ合いから生じると説かれます。
完全な静止には生命は宿らず、わずかな偏り──陰陽のアンバランス──があるからこそ氣は動き、変化が生まれる。
『易経・繋辞伝』には、次のような一節があります。
「一陰一陽これを道と謂う」
陰と陽が交互に巡る、その変化そのものが“道”の働き。
つまり矛盾とは、宇宙のエネルギーそのものなのです。
私たちの心も同じように、安定と不安、希望と恐れを行き来しながら、
成長と気づきを繰り返しています。
この「揺らぎ」が、生命の鼓動を生み出しているのです。
「一体」と「分離」を行き来する意識
氣功の修練では、立禅や静功の中で「一なる静けさ」に還る体験を重ねます。
呼吸が深まり、思考が鎮まるとき、
自他の境界が薄れ、すべてがひとつの氣として感じられる瞬間があります。
けれど、瞑想を終えれば私たちは再び「個」として世界に戻ります。
人と関わり、選び、動き、感情を抱きながら生きる。
氣功とは、この「一体性」と「分離」の往復を意識的に体験する道です。
統合と分化の呼吸を繰り返す中で、心と身体の柔軟性が育まれます。
存在=矛盾を抱きしめる
陰と陽、静と動、内と外。
そのどちらも、私たちの中に同時に存在しています。
「優しくありたい」と思いながら怒りを感じる。
「手放したい」と願いながら執着してしまう。
それでいいのです。
矛盾を否定せず、そのゆらぎの中に“生きている証”を見る。
それが氣功哲学における「陰陽の道」です。
まとめ:分離は孤立ではなく、創造のはじまり
分離とは、世界を体験するための扉。
陰陽の分かれがあったからこそ、
私たちは見る・感じる・愛するという体験を得ることができるのです。
矛盾を抱きしめながら生きる。
その姿こそ、道(タオ)を生きる人のあり方です。

馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。