情報空間を書き換えるための大前提
昨今話題になっている?「情報空間の書き換え」というメソッドは、いうまでもなくこの世界が情報で出来ているという認知科学的な前提で成り立っています。
情報空間の書き換えと氣功は同じなのか違うのかという質問をよく受けるようになりましたが、私は「氣功」に関しては沢山のセミナーや講座を受けてきましたが「情報空間の書き換え」や「魔法術」と言われているメソッドについては全く分かりません。
ただし、人間の認知する世界はすべて脳内現象なので、脳内で起きる情報処理さえコントロールできれば現実は自由自在に書き換え可能というのが、氣功も含めたあらゆる情報空間の書き換え技術の大前提となっていることは確かです。
そしてこの前提に立つと人間特有の現実認識を担っている「言語情報」、つまり言葉の威力がかなり大きいことに行き当たります。
人間は「概念」の理解によって、様々な抽象度の情報場(情報空間)へのアクセスが可能だからです。
動物は概念のない世界に住んでいます。つまり、自分の意志ではなく本能に突き動かされるだけの世界です。
一方人間は概念を認識することができるので、自分と他人の区別がわかり、自我意識や自分の意志を持っています。
時間という概念を理解し過去を悔んだり未来を予測したり希望を持つことができます。
旧約聖書では人間だけが持つこうした自我を持つことによって得られる「知恵」をリンゴを食べることによって獲得したと象徴していますが、ここで言うリンゴは、言語機能と言ってもいいかもしれません。
人間の世界においては、言葉が創造原理なのです。
私たちの「言葉」、つまり意識によってこの世界が創造される。
これが情報空間の書き換えの理論の根幹の一つであることは確かでしょう。だから使う言葉を徹底的にコントロールする必要があります。
例えばお疲れさま~とは絶対言わないとか。
お疲れさまという言葉はお疲れさま情報場へのアクセスを可能にし、お疲れさま~を連発することにより「疲れる」という臨場感をあげて「疲れる」セルフイメージが定着し「疲れる」現実が創造されるからです。
お疲れ様と声をかけることは相手への思いやりが含まれていると認識しているので私はそこまで徹底しないですが、確かに、言葉がそれを使う人間を作り、その人間の世界を作ることは確かです。
あなたの選ぶ言葉であなたは意識的に自分の思い通りの世界を作り出すことができます。
ただし、これを機能させるためには抽象度の高さと確信が必要になります。
そのためには変性意識と情動のコントロールが不可欠です。
変性意識こそ情報を書き換えるためのカギを握っているからと、情動に振り回されると抽象度が下がり葛藤や疑念、迷いが生じるからです。
私は「情報空間の書き換え」を指導している高名な方の文章を読みましたが、なんというか、圧倒的な自信や確信を感じはしましたが、温かみや愛を感じませんでした。(あくまでも私の主観であって、ご本人が実際どうであるかとは関係がありません)
でもだからこそ機能するのだろうと、文章を読んだだけで断定するわけにはいかないのですが、そう思いました。
少なくともあらゆる情報空間の書き換えのもとになっているのは苫米地英人博士の超情報場仮説なので、本当に情報空間の書き換えについて学びたいならまず博士の書籍を徹底的に研究する方が優先されるべきでしょう。(『認知科学への招待』、『洗脳』、『洗脳護身術』あたりはマストでしょう。)
情動のコントロールと情報空間の書き換え
先ほど、愛がないと書きましたが、情報空間の書き換えにはある種サイコパス的な要素を自分の中に取り入れる必要があります。
明晰さと冷静さ。情報空間の書き換えにおいては、対自分であろうが対他者であろが、共感や同情はむしろ妨げになります。
情報の書き換えに必要なのは、情動に影響を受けやすい愛や優しさのようなものではなく、抽象度の高さなのです。
誤解を恐れずに言えば、ヒーリングやセラピー業界には、ある種の優しさや愛への信仰が根強くあって、人を癒すのは相手を想う優しい心や深い愛であるという根拠の良くわからない「愛」至上主義がいまだにある気がしますが
優しさや愛が同情や共感と同列に並んでいるとしたら、認知科学的にそれはヒーリングにおいては全く機能しない価値観です。
優しさや愛が悪いと言っているのではありません。内部表現の書き換えに対しては機能しないと言っているだけです。
優しい気持ちで寄り添い、共感するというフェーズは少なくともセラピーやセッションには必要です。
でも一方で、相手の思考停止や邪気を見抜いて切っていくというアプローチがなければ、ただ痛みを分かち合っておしまい、情報空間は書き換わらないで現状維持でこのまま一緒に頑張っていきましょうよ!で平行線をたどることになるでしょう。
共感や寄り添うというあり方は相手の抽象度にこちらが合わせていくというアプローチです。
でも情報空間を書き換える時には相手と同じ抽象度にいる必要はありません。むしろ上から行くのです。
上から行くにはこの世界はすべて情報にすぎないと俯瞰出来ている必要があります。
痛いよね苦しいよねって言うだけではなくて、痛かろうが苦しかろうが全部情報ですからと、無視してコンピューターの入力ボタンを押すくらいのある種冷めた視点を持っていないと情報空間の書き換えは機能しないのです。
だから、情報空間の書き換えは、葛藤の強い人、感受性の豊かな人には難しく感じる可能性が高いです。
そうした人は、抽象度のコントロールが難しいからです。
葛藤が強い人や感受性の豊かな人(体感が繊細な人)は身体的な感覚が大きく動くので、相手の抽象度にたやすく引きずられたり、自分自身を客観的に観ることができず抽象度が下がる傾向にあり、「全部情報だから」と言われても体で納得するのに時間がかかります。
抽象度のコントロールとは、身体的な自分をいかに客観視できるかといった能力に関係するのですが、簡単に言うと身体が感じている痛みをいかに客観視できるかみたいな話です。
人間の身体も内部表現、つまり脳内現象ですから本質的には情報なのですが、この身体の感覚は情報ですと割り切れないと情報空間で起きる変化にうまく身体が統合されないということが起こります。
人間の脳はコンピューターだと言っても、AIではなく生身の人間ですから痛みも感じればしんどくなることもある。
痛みや辛いという物理的な体感がその人の情報空間を支配することもあるのです。
そこが、ある観点から見れば、ボタン一つでおいそれと切り替わることのできない人間の弱みに映ることもあるかもしれません。
なので、「身体」を無視したあるいは軽んじた情報空間の書き換えはうまくいかない、人間は物理と情報にまたがる多次元的な存在であることを無視できないというのが三和氣功の見解です。
伝統的な氣功に身体性を高める方法論が内包されているのは、氣(情報)の操作には身体が重要であることを理解していたからです。
例えば負の感情や邪氣も情報です。
負の感情も邪氣も情報ですから、それ自体に良い悪いはなく単なるエネルギーとして扱うことができれば自在に操作できるでしょう。
しかしそれには身体性に裏付けされた精神性が必要になります。
でなければ、負の情報にたやすく身体を乗っ取られ負の情動に支配されて、情報を操るどころか情報に操られることになるでしょう。
ところが、私が察するに「情報空間の書き換え」と言われるメソッドが身体性に関する知識や実践を含んでいるようには思えません。(実際はわかりません)
なので、うまくいく人もいれば、むしろ理解しきれずに逆効果で終わったかも…的な人も出てくるであろうと予想をしますが、それも単なる推測です。
情報空間の書き換えに愛は必要か
では本題に入りましょう。
情報空間の書き換えに愛は必要か。
私の答えはYESです。
先にも書いたように、これは別に、情報を書き換える時には相手に愛情を感じましょうとかっていう話ではありません。
抽象度の低い愛情ほど害になるものはありません。
ここで言う「愛」とは、この世界のすべては一つだという理解からくる愛のことです。
昨今の「情報空間の書き換え」に対して「そこに愛はあるんか?」という、某金融機関のCMばりの素朴な疑問を私はかんじるのです。
なぜか。
愛がない情報空間の書き換えは、一つ間違えると闇に落ちる危険を含んでいるからです。
つまり、この世界が情報であるからこそ自由に書き換え可能であるという情報空間の書き換えの大前提は、昔の人が一生かかっても理解できなかったかもしれない理屈です。
この世界は情報だという理屈を理解するということは、つまりこの世界は幻想(バーチャル世界)であると理解すること。この世界は空であるという本質を悟ることと同じです。
旧約聖書の創世記において、神が「光よあれ」と言ったので光が生まれたという、その神こそ自分であると知ることなのです。
でも、この世が本当は心が生み出した世界で物理的な実在は幻想にすぎない、この世界はすべて私たちの思考によって生み出されているのだから
私たちは自分の思考と言葉を使って自分の好きなようにこの世界を創造できるのだと理解することだけでは、自分こそ神であることの本質に至ることはできません。
この段階の悟りを「仮観」といいます。
中途半端な悟りは常に「闇落ち」する可能性をはらんでいて、
自分の好きなようにできるんだったらなんだってしていいよね、だってこの世界は幻想なんだから、ってことになるし、
不幸や不運に苦しむ人はその人が悪いってことになるし、目の前に苦しんでいる人がいても、あなたが苦しいのはそれはあなたの心の問題ですといって手を差し伸べない正当な理由になってしまいます。
こうした発想には選民意識みたいなものも生まれる素地があります。
例えば成功者やお金持ちは偉いといった価値観によって、弱者は軽蔑や差別の対象となります。
この弊害が社会的な問題に発展したのは言うまでもなくオウム真理教の事件で、殺してあげた方が相手のためになるみたいな変な正義がまかり通ってしまったり、いびつな万能感を作り出す危険をはらんでいます。
情報空間の書き換えは、使えてしまえば確かに強烈な技術であるからこそ危険な一面があり、だからこそ使う人の価値観やゴールが大事になってきます。
「そこに愛はあるんか?」と問うのは、どの抽象度において、そしてどんなゴールのために情報空間の書き換えを行うのかという意味です。
釈迦が説いた悟りは「縁起」です。
縁起を理解しなければ、釈迦の観たこの世界の理は理解ができません。
縁起とは人は他者とのかかわりなくしては存在できないということへの深いレベルでの理解です。
自分にとってこの世界で何一つ不要なものはなく、蟻であろうが、遠く離れた国の兵士であろうが、道に横たわる浮浪者であろうが、自分に害をなす敵対者であろうが、弱者であろうが、強者であろうが、あらゆるものが自分を成り立たせる構成要素であり、すべては自分の一部、宇宙の一つの表現であるという、深い理解なのです。
ここに至った悟りの段階を「中観」といいます。
三和氣功が目指すのはもちろん「中観」です。
その世界観の中では、誰もが自由な表現者であり、誰しもに等しく価値があることが明確なので、誰に対しても愛を基盤にした関係性が成立し、調和と共鳴が起こります。
自分が幸せであることは、世界のあらゆる出来事とつながっていることがわかります。
喜びも不幸も、悲しみもあらゆる出来事が自由な表現であることを理解しているので、そこではだれも軽んじられることはありません。
いかに高い視点でこの世界の本質を理解するかによって「情報空間の書き換え」の質は変わるし、それを駆使する人が作り出す世界も変わってきます。
情報空間の書き換えを機能させるために本当に大切なこと
最後に、愛をもって私が皆さんに伝えたいことは、情報空間の書き換え技術を学ぶ以前に本当に大切なのは、あなたがどんな価値観をもってどんな世界で生きていきたいかということです。
それによって到達点が変わってきますし、得られるものが変わってきます。
そして本当は、情報空間の書き換えを学ばなくても、あなたが本当の意味であなた自身に目覚めれば、あなたの世界は一変します。
情報空間の書き換えを学ばずとも、あなたにはもともと世界を生み出す力も世界を変える力も備わっている。
そして何を頑張らなくても、満たされて生きる喜びを表現して人生を創造し続けることとができる。
そこに目覚めることができれば特別なスキルも何も必要がありません。
であれば、わざわざ情報空間を書き換えるより、本当はどんな世界に生きたいのか、本当の自分は何者なのか、そこに意識を向ける方がよっぽど早道かもしれません。
もちろん、情報空間の書き換えに必要な知識やスキルを習得することはあなたがあなた自身の本質を思い出すことにとって有益なことであることは間違いありません。
でも、忘れないでください。
情報空間の書き換えを習得しようがしまいが、理屈なしに、すでにあなたはその気になればいつでもあたらしい現実を創造する力も現実を変容させていく力も十分に持ち合わせているのです。
その力を引き出すのは、情報空間の書き換えの理論やメソッドではなく、あなた自身があなた自身に寄せる深い信頼と愛なのです。
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認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。