心(マインド)と気功

物事を進展させ、新しい流れを生み出す創造エネルギーの秘密

2021年7月28日

自分の中にこそ認めたくないものがある

中学生の頃、大岡昇平の「野火」という小説を読みました。第二次世界大戦の人間の極限の姿を描いた戦争文学ですが、中学生の私には衝撃的でとても印象に残った作品でした。

その本を読んだ後、私にはある種の悟りがありました。それは自分自身の中に狂人が潜んでいて、自分自身こそが悪鬼に違いないという認識でした。

大戦中のレイテ島で、孤立した日本軍人が孤独と飢えと生きることへの執着と神への関心を胸に抱きながらどんどん追い込まれていく姿が描かれているのですが、極限状況においては、人を殺して生きるために共食いだってしてしまう救いがたい人間の有様と、一方で神を求める人間の心の狭間で絶望して、主人公は狂気と化していきます。

それはもちろん小説ですが、でも作者の生々しい体験を通して描かれている以上、人ごとではないという感覚が私を襲いました。

その状況に追い込まれて、私は、自分が人を殺して、自分が仲間を殺して生き延びようとしない保証など無いと感じざるを得なかったのです。

戦争は人間の姿を浮き彫りにします。こうした人間の醜さが暴かれる一方で、同じような極限状況でも人のために命を投げ出したり、命と引き替えに誰かや何かを守ったりするような人間の崇高で美しい姿も明らかにされています。

どちらも人間の有様です。

でも、すくなくとも戦争を経験していない私が、そのどちらが素晴らしく、そのどちらがダメだ、いけないと論じる資格などないと感じたし、「野火」の主人公である田村をみて、人間は悲しい生き物だとか戦争は人を傷つけるとか、戦争は悲惨だからいけないなどと、単純に片付けられるものではない何かをこの作品は私に突きつけたのです。

それは、田村の戦争の体験は単なる人ごとではなく自分の中にこそ田村の狂気があるということを悟ってしまった、その衝撃でした。

私自身の中に人殺しの自分や人食いである自分が存在することを認めざるを得なかったのです。それは、私が私の一部を田村に投影して認識したからでした。

私は弱くて醜い人間です。誰よりも自分のことしか考えていないし、自分が一番に助かり得することを何よりも大事に考えます。だから平気で人を殺すことだっていざとなったらきっとできます。誰よりも、本当に誰よりも、私が一番弱くて、ずるくて、汚い根性を持った人間なのです。

それを認めることはとても怖くて恐ろしいことですが、でも、私は否定できなかったのです。

この残虐で卑劣な姿は私のすべてではないにしろ、私の中に確実に存在する私の一部です。

 

無条件に人間という存在を観る

私はその頃、カトリックの学校の通っていましたから、「野火」のような作品を通して人間の弱さに触れ、一方でマザーテレサのような人の生き方にも触れて、そして神はその人間をどう見ているのかということにとても興味を持っていました。

田村が極限状況に追い込まれた時も、神は救いの手をさしのべる訳じゃないのです。少なくとも、善人を守って悪人を罰するような、そんな稚拙で単純なアルゴリズムのもとに神は存在していないことくらいはその頃の私は知っていました。

でなければ不条理だらけなこの世界の説明がつきません。

いつ何時も神は「沈黙」するのです。

遠藤周作が描いたように、信仰に殉じる者にも裏切る者にも、等しく沈黙を守っているのです。

それは、無慈悲なのではなくて「無条件」に人間を観ているからなのです。

良いとか悪いとか、信じているとか信じていないとか、愛しているとか愛していないとか、キレイとか汚いとか、そういう基準で評価する機能を持っていないし、そういう観点で世界を観ていない、それが神です。

だからこそ、そこに癒しがあり、救いがあり、赦しがあり、愛があるのです。

中学生の私にはまだ理解ができていなかったけど、「野火」という作品を通して本当に醜くて弱くて狂気の自分を自分の中に観たとき、衝撃ではあったけれど、でも心のどこかでなんだそうかと安心したというか、解放されたような、赦されたような感覚もどこかで感じていて、それがために私は「野火」を読んで、自分に絶望したり、自分を否定することなく、むしろ感動できたのです。

人間とか自分というものに対する理解が深まった。

それは今思えば、自分の中に人間を無条件に見る視点を見いだしたからです。

「野火」という作品が私の中にそういう視点を呼び覚ましてくれたのかも知れません。

弱くて汚い姿も純粋な人間の有り様で、それは人のために命を投げ出す気高さと同じくらい、純粋なありのままの人間の姿であり、人間とはなにかということを理解するために、ちゃんと認める必要があることを無意識に理解して観ていた自分がいたのです。

無条件に観る神の視点は、自分の外側ではなく実は自分の中に存在します。愛も赦しも癒しも救いも自分の中から生まれます。

その観点がなかったとしたら、田村の体験を自分と切り離して、私は違うと「人ごと」としてとらえるか、田村の有り様を否定したり批判したり、哀れんだりしたことでしょう。

でも、田村という人物を通して描かれた人間の姿をそのまま無条件に観ることができたので、私は自分を許せたのです。人間を許せたと思うのです。

 

相手の中に自分が切り離した自分をの一部を観る

世の中には、分離意識が強いために起きる様々な人間関係の問題があります。イジメや差別、嫉妬や嫉み、そしてその人間関係の中でみんな愛を見失って、疲れ切っているように感じます。

被害を受けている人は、危害を加える人の中に、人を責めて苦しめ、弱い者を傷つける攻撃的で残虐で冷たい自分を観てください。

人を攻撃してしまう人は、攻撃している相手の中に、弱くて無抵抗で、死にたくなるほど尊厳の低い自分を観てください。

相手に、自分が自分と分離させている自分の一部を観ているからこそ、あなたは苦しむのです。

あなたが最も受け入れがたいと思う相手や環境の中にこそ、あなたがずっと否定し、拒絶し、見捨ててきた自分の一部があります。

それは、相手のすることをただ甘んじて受け入れるとか、こんなに苦しいのは自己責任だ、自分のせいだと自分を責めるとかというのは違うのです。

ただ、相手の中に、物事の中に、分離されたままの孤独な自分を観るだけでいいのです。そこに、良いとか悪いとかの評価や分析はいりません。

あなたが否定して、拒絶して、自分から切り離してしまった自分自身を、再び自分に統合していかなければ、あなたは愛を知ることもなく、癒されることもなく、救われることもなく、過去にとらわれたかごの中の鳥のままです。

 

陰と陽の交わりの中に創造がある

人間の中には闇も光も存在します。聖人のような振る舞いをするのも人間だし、どこまでも残虐で卑劣になるのも人間です。人間というものを知るためには、そのどちらをも認めなければいけません。

それが人間を知り、自分を知り、愛するということです。

でも、多くの人は自分の中の闇を観るのが怖いと思うし、自分の中の悪魔を認めたくないし、自分の中の弱さや醜さを知りたくもないし、そんな自分を許せないと思ってしまう。

だから、自分ではない誰かにその切り離した自分を投影しては、相手を憎んだり、嫌いだと思うし、相手を責めて、うまくいかないのは相手のせいだと思います。誰も自分を愛してくれないと錯覚します。

でも、一番自分を拒絶し、愛していないのは、本当は自分自身なのです。

あなたが癒されず、救われないのは、あなたが自分の光の部分だけを愛そうとするから。陰と陽のうち、陽の部分だけしか良しとしないからです。

そこに物事の流れの滞りが生じます。

この世界は陰陽の世界。矛盾の世界なのです。相反するもの同士が表裏一体となって物事を形づくり、動かしている。光と闇、善と悪、清と濁… 陰と陽のエネルギーの間で物事は生まれて流れていくのです。

その陰陽の両極は切り離して存在することはありません。マザーテレサと「野火」の田村は光と影のように一つなのです。そしてそれが人間という存在です。

聖なる光は、その真逆の闇との間でしか認識できないし、闇は光とのコントラストの中でしか存在できないのです。

だから、その陰と陽の相互作用、交わりの中にしか認識は存在しないし、あなたも世界も存在できません。この世界を生み出す創造のエネルギーは常に陰と陽の交点にしか生まれないし、作用しません。

人間関係に限らず、うまくいってない物事を先へ進めたり、何かを新しく創造していくためには、何かを否定したり、拒絶したり、責めたり、分析して納得しようとしたりするのではなく、起きていることの両極を観て、起きていることと交わる必要があります。そこにしか創造のエネルギーが生まれないからです。

それは別の言い方をすれば起きていることを無条件に観るということでもあるし、ただ起きていることに対してオープンであるということもできるかもしれません。ありのままを受け入れて認めるということとも言えます。

自分から分離しているものを無条件に観て交わる(受け入れる)ことで、新しい創造が起きる。それが「天」と「地」とその交流である「人」の和である「三和」という言葉に込められたエネルギーそのものです。

 

 

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