私たちは自分が望む未来を創ることも、自由に人生を生きることもできます。
だけど、自由を手に入れたからと言って人生に大変なことや苦しいことや悲しいことが起きなくなるというわけではありません。
生きることは大変なことです。問題や苦しみの連続です。
思うようにはいかない、それが人生です。
毎日毎日を安心で安全で何も苦労することなく、安楽に生きる人生を送りたいと思っても、そんな人生はありえません。
どんな人間でも、人間である以上は生きることの大変さや苦しみや辛さと無縁でいることはあり得ないのです。
理不尽なことも、不公平なことも起きるし、なぜ私が?と思うような出来事や自分ではどうにもできないような大きな力につぶされてしまうことだってある。
時には追いつめられてほんのささやかな幸せすら手に入らないのではないか…という氣持ちになってくることもあるかもしれませんね。
誰の人生にも、山があり谷がある。
晴れる日もあれば嵐の日もある。
たとえ人生の真理を悟っても、人間としての苦しみや人生の大変さから逃れられるわけではないのです。
生きることは辛すぎる。
問題は去ってはまた現れ、去ってはまた現れる。
だから、みんな癒されることや救われることや守られることを求めずにはおれなくなるのかもしれません。
苦しみから逃れたいから、安心を保証される方法や自分が傷つかずに済む方法をいつも探し求めてしまうのでしょう。
でも、そんな方法はどこにもありません。
私たちの人生は基本的に奴隷からスタートします。
大人になったころには誰もが自分以外の誰かの価値観や自分が決めたわけではない何かの基準や与えられた枠組みに支配されて生きている奴隷となっています。
奴隷で生きていることは甘い毒薬を飲まされ続けているのと同じです。
苦しいけれど、辛いけれど、自分が選択と行動に責任を負う必要がないから楽です。
誰かの言うなりになっていることほど楽なことはないけれど、でも自分の本当の気持ちや意志をひた隠したり、押さえつけたり、否定したり、無視したり、気づかないふりをして生きていく。
それが奴隷の人生です。
でもいつしか、その奴隷である自分の中の「不自然」がじわじわと自分を苦しめ始める。
押し殺した自分の中の「自然」が本来の自分を取り戻そうとするからです。
そして、自分の生き方がものすごく不自然であることに氣がつきます。
身体も心も疲れ果ててものすごく生きることが苦しいことに氣がつくのです。
ただし、だからといって、その奴隷を辞める勇氣や特別な理由もない。
たいていの場合がそうです。
自分がずーっと生きてきた枠組みから出たり、慣れ親しんだ価値観やルールを逸脱したり、反抗したり、抵抗したり、そういうタブーを犯すのは、
それはそれでものすごく怖いし、労力が必要なことだし、
なにより、そうしたからって本当に自分は何か違う世界を見れるのか、幸せになれるのかその保証はどこにもないじゃないかと思うからです。
壁の中で与えられた秩序に守られて暮らした者にとっては、壁の外は守ってくれるものも、どうしたらいいか教えてくれるものもない、荒野です。
頼れるのも信じられるのも自分だけ。
誰も助けてはくれない、自分でいつも考え選択し決断をする、そういう世界なのです。
そんな世界の中に身を投じる価値があるのだろうか。
死んでしまうかもしれないリスクを冒してまで人生を変える必要があるのか?
いや、そこまで自分は求めていない… と多くの人は思うかも知れません。
壁の中から壁の外の世界をいろいろと想像して、こうだったらいいな、ああだったらいいな、でも自分の分をわきまえて生きなきゃ、だって今でも十分幸せだから…
そんな風に夢を見て過ごすのが一番無難かも知れません。
ちょっとした苦痛には目をつぶってやり過ごし、おとなしくしてればとりあえず生きていける。
その発想自体がまさしく「奴隷」的であると言わざるを得ません。
でもそれがまさしく今あなたが生きる世界です。
だけど、病氣とか事故とか倒産とか、被災するとか、生きることに直接向き合うしかない人生の危機に際して、やっと私たちは本氣で考えざるをえなくなります。
これからどうしよう。
ホントにこのままでいいのだろうか。
こんな人生に意味はあるのだろうか。
もし、人生で今までどおりの生き方に戻ることができないくらいの大きな出来事が起きたとしたら、それは今まで通りじゃない方法を考なければいけない時が来たということ。
そしてはじめて私たちは壁の内側に自分の居場所を探してももうどこにも居場所はないのかも知れないと思い始めます。
ここで生きるのはもう嫌だ、限界だと心の奥深くから衝動がわいてきて、氣づかないうちに身体が悲鳴を上げるのです。
なんでこんなことになったんだろう
エレン・イェーガー「進撃の巨人」
心も身体もむしばまれ、徹底的に自由を奪われ
でも
みんな何かに背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ
たいていその何かは自分の意志じゃない
他人や環境に強制されて仕方なくだ
ただし
自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
その地獄の先にある何かをみている
それは希望かも知れないし、さらなる地獄かも知れない
それは進み続けた者にしかわからない
壁を越え、壁を壊して外に出るには、最終的には自分で自分の背中を押すしかありません。
壁の外に広がる荒野や茨の道を一人で行く勇氣と、その道の途中で死んでもいいという覚悟が必要です。
でも、自分の生き方に疑問を感じ、いても立ってもいられなくなった人は壁の縁に立たざるを得なくなるのです。
壁の中も壁の外も大変なことには変わりがないし、どちらを選んでもいいのです。
でも決定的に違うことがあります。
それは壁の外に自分の道を見つけようとするあなたは「自由」と「未来」という力を手にすることができるということ。
自分の価値を自分で決める権利と、何に命をかけるのか自分で選択する権利と、未来を自由に創造する権利を手にすることができるのです。
壁の外に未来を求めようとするとき、地獄の道の先に無限の可能性を見ることができます。
それはすべてあなたの自由意志と責任のもとに選ぶ何かには違いありませんが、少なくともあなたの人生はその何かによって躍動し、飛翔することでしょう。
でも、あなたが壁の外を自分の目で見ようとしない限り、壁を壊して外に出ようと思わない限り、その何かは絶対に見えないし手に入りません。
それがどんな生き方であれ、壁の外に道を求めたあなたはもはや弱者でいられません。
奴隷でもなく身も心もむしばまれた病人でもなく、一人の創造者として自分だけの生命の価値や意味をこの世界に示しながら人生を突き進む巨人となるのです。
壁の外と壁の内側とどちらがいいとか、どちらがオススメというようなことはありません。
どちらも等しく人のあり方です。どちらが楽とか幸せなどというものはないのです。
自分の苦しみや痛みを誰かにわかって欲しい、傷ついた自分を労って欲しい、愛して欲しい、楽になりたいと
誰かや何かに救いや助けを求めながら住み慣れた壁の中の地獄に安住する家畜や奴隷として病んでいく人生か、
安住を捨て、奴隷や家畜を辞めて病人を辞めて、壁の外に自分だけの道を開拓していく孤独な茨の道を行くのか、人生にはどちらかしかありません。
どちらを選択するのか、それはあなたの完全なる自由であり、実はあなた以外の誰も選ぶことはできません。
でも、いずれ私たちは氣づきます。
「壁」は昔からずっとそこにあるのではなく、他でもない自分が築いたものだということに。
私たちが自分の内側にどんな時も存在していた静寂と喜びの大きさに氣づくときに、自分が、そして人類が、恐れのために長い年月をかけて築き続けてきた幻の砦は、いつか崩れ去ることでしょう。

馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。