― 外に神を探す時代から、内に神を見いだす時代へ ―
🕊️ シリーズ:宗教から自由への道 ― 神と人のあいだを越えて
第2篇 「神から自由になること ― 宗教を超える意識の目覚め」
── 信仰と依存を超えて、自由な魂を取り戻す
※このコラムは、宗教的信仰を外の権威から内なる神性への信頼へと転換していく、
三和氣功の哲学シリーズ〈宗教から自由への道〉の一篇です。
私たちは長いあいだ、「神に選ばれ」「神に裁かれる」存在として生きてきました。
けれど氣功の視点から見れば、神とは外にある超越的な存在ではなく、いのちそのものの働きです。
外の神を求める信仰から、内なる神性への信頼へ──
「神に従う」生き方から「神とともに創造する」生き方へ。
それは、誰かにすがることをやめ、
あなた自身の中に宿る“光”を思い出す旅でもあります。
信仰とは、外の神を信じることではなく、
内なる光を思い出すこと。
宗教や教義を超えて、本来の自由と調和を生きる道について綴ります。
はじめに
宗教の限界は、信仰の対象を外に作ることにあります。
人は、見えない不安や生の痛みを前にして、
「絶対的な何か」に救いを求めます。
けれど、釈迦もイエスも、
“神”を説いたのではなく、
「道」を生きて見せた人たちでした。
彼らは「信じなさい」とは言わなかった。
「目を覚ましなさい」「自らを知りなさい」と言った。
それが、宗教が制度化される前の――
人間そのものへの教えだったのです。
外在神という構造
宗教が組織になるとき、
「外の神」と「信じる人間」という二元が生まれます。
その構造は、しばしば“恐れ”を媒介にして機能します。
「疑えば罰せられる」
「従えば救われる」
そんなしくみが、
人の自由な心を少しずつ縛っていきます。
そして、それを利用しようとする人が現れると、
宗教は“信仰”から“支配”へと変わっていきます。
オウム真理教は、その象徴的な例でした。
恐れと救済を同時に与えることで、
人の自由意志を奪い、存在の根を切り落としてしまったのです。
※オウム真理教とは、1980〜1990年代に日本で活動した新興宗教団体で、
1995年に発生した地下鉄サリン事件などの重大犯罪で社会に深い影響を与えました。
原罪という幻想 ― 恐れの始まり
キリスト教では、人間は「原罪」を背負って生まれると教えられてきました。
アダムとイブの物語に象徴されるように、
「人は生まれながらにして神から離れた存在である」とする考え方です。
この“罪の意識”こそが、
多くの人々を外在する神への服従へと向かわせてきました。
「私は足りない」「私には価値がない」という思いは、
信仰を恐れに変え、祈りを罪悪感の告白にしてしまいます。
けれど本来、イエスが語ったのは――
「罪を償いなさい」ではなく、
「光を思い出しなさい」というメッセージでした。
原罪とは、罰ではなく、
“分離という夢”の比喩にすぎません。
私たちはもともと、
神と切り離された存在ではなく、
神性そのものとしてこの世界を生きているのです。
苦しみの意味 ― 自立への通過儀礼
けれど、そこから抜け出そうとする人たちの苦しみは、
決して無意味ではありません。
宗教二世の方々が体験する深い葛藤や身体的反応も、
外在神の命令から、内在神の声へと還るプロセスの一部なのです。
身体が“恐れを手放す準備”をしているだけ。
そのときに必要なのは、
誰かの導きではなく、
見守られる安全な場と、
「これは壊れているのではなく、開いている」という理解です。
“知ること”は、恐れを溶かす灯りになります。
理解があれば、どんな揺れも通り過ぎていけます。
智慧は人に力を与え自由にします。
「あなたの信仰があなたを救った」
― 外なる神から、内なる光へ ―
イエスは数々の癒しの場面で、こう語りました。
「あなたの信仰が、あなたを救った。」
Your faith has made you whole.
この言葉は、「神を信じたから救われた」という意味ではありません。
本当は、「あなたの内にある確信が、あなたを癒した」ということです。
イエスが指し示したのは、
“信じる対象”ではなく、
信じる力そのものが、すでにあなたの中にあるという真理でした。
宗教が制度化されていく過程で、
この言葉は「イエスを信じれば救われる」という外的信仰にすり替えられていきました。
けれどイエスの本意は、
「あなたの中の光を信じなさい」という優しい励ましにあったのです。
信仰の意味を知った瞬間
この言葉の意味を本当の意味で理解したとき、
私は胸の奥が熱くなって、涙が出るほど感動しました。
「あなたの信仰が、あなたを救った。」
イエスって、やっぱりカッコいいなと思いました。
彼は、誰かを従わせるためにこの言葉を言ったのではありません。
“信じなさい”という命令ではなく、
「あなたの中の光を信じなさい」という優しい呼びかけだったのです。
そのとき私は、
“信仰”とは「誰かを信じること」ではなく、
「自分のうちにある神性を思い出すこと」なのだと気づきました。
いまだ外に神を探していたあの頃の私に、
一筋の光明がさしました。
「救いは、すでに自分の内にある」
神から自由になるとは
神から自由になるというのは、
神を否定することでも、信仰を捨てることでもありません。
むしろそれは、神を内に取り戻すことだと思います。
外にいたはずの神が、
私の呼吸の中に、心の静けさの中に息づいていると気づいたとき、
人はもう「救われよう」としなくなります。
救いとは、与えられるものではなく、
思い出すものだからです。
信仰の対象が天の彼方から自分の内へと還るとき、
祈りは願いではなく、感謝に変わります。
そのとき私たちは、
もはや「神を信じる者」ではなく、
神性を生きる者になるのです。
神から自由になるとは、
神を超えて、神とひとつになること。恐れの信仰を手放したとき、
そこに残るのは、愛と静寂という名の光だけです。
教える者としての祈り
私は、氣功を教えるというこの立場も、
一つ間違えば宗教のように人を縛り、依存させてしまう可能性があると思っています。
だから、深い真理や哲学の探求は好きでも、
「これは教えられない」と感じていた時期がありました。
依存されるのも怖かったし、
知らぬ間にその依存関係に自分が酔ってしまうのも怖かったのです。
氣を扱うということは、
本当はとてもデリケートなこと。
命そのものを扱う行為だからです。
だから私は、
“教える”のではなく、
“共に観る”人でありたいと思っています。
氣の流れを正そうとせず、
ただその人の中にある自然な動きを信じたいのです。
教えるという行為もまた、
氣のように透明でなければなりません。支配せず、導かず、ただ共に在る。
それが、私の信じる氣功という道です。
あとがき ― 静けさの中で
氣を教えるということは、
力を与えることではなく、
自由を思い出してもらうことだと思います。
だから私は、
誰かの上に立つのではなく、
同じ空の下で、同じ風を感じながら歩いていきたいのです。
氣の流れも、愛も、真理も、
本当は誰のものでもありません。
それを思い出すとき、
私たちは皆、
“神からも、誰からも、自由な存在”として、
静けさの中に還っていけるのだと思います。
🕊️ シリーズ:宗教から自由への道 ― 神と人のあいだを越えて
外の神を求める信仰から、内なる神を見いだし、
やがて“創造主として生きる”意識へ──
三和氣功の哲学が導く「宗教から自由になる」ための4つの物語。
第1篇 気功師が観た「マグダラのマリア」
― 愛と赦しの中にある、信仰の本質
第2篇 神から自由になること ― 宗教を超える意識の目覚め
― 信仰と依存を超えて、自由な魂を取り戻す
第3篇 信仰とは、自己への信頼である ― 神を内に取り戻すとき
― 神を外に置かず、自分の中に光を見いだす
第4篇(最終) 創造主として生きる ― 内なる神を現す道
― 神とともに世界を創る、調和の生き方
🌿 このシリーズは、宗教的信仰を外の権威から内なる神性への信頼へと転換していく、
三和氣功の哲学エッセイです。
馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。