神の無条件の愛
神の無条件の愛を説いたのは他でもないイエス・キリストです。
私は特定の信仰を必要としていないので、信者ではありませんが長らくカトリック教会と縁があって、それが私のバックグラウンドの一部として私の生き方や価値観に影響を与えていることは確かです。
神の無条件の愛とは、つまり、「神の一方的な愛」のことです。
あなたがどこで何をしてどんな感情や考えを持ってどんな行為に至ろうが性別や貴賤にかかわらず、神はあなたを愛しているという教えです。
そして、あなたがその神の愛を全面的に受け入れ信じることが「信仰」です。
ここに「父と子と精霊」の三位一体が成就します。
後でも述べますが、神の一方的な愛だけでは三位一体は成立しません。
人間がその愛を受け入れるかどうか、受け取るかどうかが三位一体を成就させるか否かを決定します。
キリストの教えは非常にシンプルで、自分が無条件に神に愛されていると受け入れるだけで良い、自覚するだけで良いのです。
それですべて救われ与えられる、天の国へ行けるというのがイエスが説いたことです。
一方、氣功のバックグラウンドにある老子の哲学もまた、天のなすことをすべて受け入れる器となることが人の本質であると説きます。
どんな逆境にあっても、どんな失敗をしても、良いときも悪いときも、すべてよしとして全面的に受け入れる、それが「道 タオ」にかなうのであると老子は言います。
受け取る器であることで、人は至福に至り天命に沿うことになります。
これは、イエスの神の無条件の愛への信仰と、実は全く同じことです。
道 タオ という創造原理
「道 タオ」について老子は、それは名もなく形もないものであるといった表現をします。
もし名前をつけてしまったらもはやそれは「道 タオ」ではなく別物になってしまうと言うのです。
では、「道 タオ」のことをどのように理解をすれば良いのかといえば、この世界に事象として認識出来る(概念として名前をつけることの出来る)あらゆることを生み出す創造原理であるととらえると、今のところいちばんすっきりします。
この創造原理においては、すべては「関係性」のうちにあるということがベースとなります。
釈迦の説いた「縁起」そのものを理解しなければ「道 タオ」にはたどりつけないということです。
中国では、この世界のあらゆる関係性を「陰陽」という概念に抽象化してとらえてきました。
すべては関係性のうちにあるということは、陰と陽はそれぞれ単独では存在し得ない、よって陰と陽は分離して真逆にあるようで実は一つであるということです。
この「関係性」、釈迦のいう「縁起」は、必ず三つ巴が最小単位です。
すなわち、主体と客体とその間にうまれる関係性です。陰陽でいえば、陰と陽とその関係性です。
これが実は三和氣功の「三和」でもあり、キリスト教の「三位一体」でもあるのです。
これらの3つの要素は、どれか一つが欠けても成り立たないので、別々ではなく一つです。
陰と陽が交わるところに創造原理が働いてあらゆるものが生まれ滅び、また生まれていくというのが、古い中国の世界観であり、「道 タオ」の法則です。
だから、(天と自分との関係性において)天のなすことをすべて受け入れ受け取る器となりきることで、自然に創造原理が働いて、上手くいくようになっているし、それが人間が至福に至る方法であると老子は言うのです。
これは、父である神の無条件の愛を無条件に受け取る子なる神となりなさい、それによって父と子との関係性の三位一体を成就させ、人生におけるあらゆる創造を生み出して生きなさいというイエスの教えでもあるのです。
あらゆるものと分離するのではなく、交わって一つになる、或いはすでに一つであることを自覚せよというメッセージがイエスの説く「愛」です。
敵を愛せよ、とか右頬をたたかれたら左の頬も差し出せという、一見難しいように聞こえる彼の言葉は、あらゆるものと分離するのではなく「和」しなさい、そこに創造が起きるからという意味なのです。
創造を生み出す「場」
さて、イエスの説く三位一体は、神の一方的な愛を人間が一方的に受け取る、その関係性をさします。
「関係性」をとらえるとき、必ずそこには主体と客体があります。
それはキリスト教で言う「父と子」、陰陽論で言う「陰と陽」という対極ですが、どちらか単独では成り立たない、関係性がないと生じないというのがこの世界の理なので、繰り返しになりますが主体と客体は一つなのです。
それは、相手が神であっても宇宙であっても同じです。
だからイエスが本当に伝えたかったのは、神は神殿や空高い人間の領域ではないどこかにいるのではなく、神はあなたです、神はあなたの中にこそいる、ということでした。
よって天国とはどこか遠い場所にあるのではなく、今ここ、この現実世界に在るものです。
あなた自身が神の子であることに目覚めることこそが、キリストの説く「愛」を理解することなのです。
さて、人間の悩みや救いがたい苦しみは、「分離」から生じます。
認めない、認めてもらえない、見捨てる、見捨てられた、裏切る、裏切られた、憎む、愛されない、傷つける、傷ついた… といった私たちの孤独や絶望の根本にあるのは(神から)分離しているという意識です。
そしてその分離した意識のままでは人は救われないし、癒されない、そして創造は生まれません。
氣功的な文脈で言えば、統合なくしては創造へつながるダイナミックな流れは生まれないのです。
分離意識に支配された私たちを癒し、救い、新しい創造の世界に導くのは、神に愛されていることを自覚しその愛を一方的に受け取りゆだねることなのです。
タオイズムではそれを「無為自然」といいます。
今起きていることを全面的によしとして受け入れるということ。
宗教や哲学の中ではこうしたシンプルな教えも難しく聞こえるので、もっともっと単純化して言えば、要するに、自分で自分を愛して認めなさいということです。
「今がどんな状態で、自分が何をして何を感じても、あらゆる自分を受け入れ肯定する」
難解に感じる老子の教えやイエスキリストの教えをできる限り一般的にわかりやすいように単純化するとこうなります。
そしてこれが実は三位一体を実現している状態だし、「道タオ」に委ねている状態だし、三和の状態。
これがあなたが何もしなくても創造が生まれ流れが起きて自然に物事が動いていく「場」を作りだす条件なのです。
ですから、イエスは言います。あなたがどんな闇の中にあっても私はそこに行くと。
極論を言えば、例えば殺人みたいなどんな悪行を犯そうが、あなたは愛されているし許されると言うわけです。
人が自分の人生に目覚めて生きるためには、自分が創造者としての自覚を覚えるためには、罪悪感や恥にまみれたどん底の闇の闇にあっても、神の愛を受け入れる=自己肯定することからしか始められないのです。
ところが、私がよく言うように、自分を愛し癒し救うことができるのは自分しかいないにもかかわらず、いとも簡単に私たちは自分を真っ先に裏切り見放し、責めるのです。
でも、自分の闇を自分から切り離していてはいつまで経っても救われることはなく、癒しは起きず、創造の「場」は生まれず、新しい命を生きることはできないのです。
人間関係における三位一体
私たちはあらゆる人間関係のなかに生きています。
世界中のあらゆる人との縁起の中に私たちは存在しているのです。
そんな中で、争いが起こり、差別があり、騙したり騙されたりするような、人に孤独や不安や分離を体験させることが起きています。
あなたを取り巻く人間関係を変えたいのなら、分離を意識するのではなく和合を意識するようにしましょう。
すなわち、奪うー奪われるという関係性を辞めて与えるー受け取るという関係性にフォーカスするのです。
そのためにはまずあなたが与えないといけません。あなたが受け取らねばいけません。
奪うことと奪われることは「関係性」なので、実は対極にあるように見えて同じです。奪うことと奪われることは同じなのです。
同様に与えることは受け取ること、受け取ることは与えることです。
よって、あなたが奪う奪われるという分離意識から抽象度を上げて、相手との関係性の中に与える受け取るという縁起を見つけることができればそれでいいのです。
実は奪うー奪われるという関係性も、抽象度を高めてみれば与える受け取る関係性になっていることがわかります。
いずれにしても、フォーカスしたところに創造が起きるので、あなたがどんな関係性にフォーカスするか次第です。
与えるー受け取る、愛するー愛されるという縁起の中に創造を起していきたいなら、与えるー受け取る、愛するー愛されるという関係性を相手との間に観ればいいのです。
これが、あなたの人生を流れに乗せていく秘訣でもあり、その縁起の視点を世界全体へと広げていけたなら、それが世界を癒し創造する原動力となります。
気功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。