人は情報操作をする生き物
氣功は情報操作の技術です。
認知科学的に捉えた氣功の定義が「共感覚による内部表現の書き換え」であるように、氣功は脳と心の「書き換え」、すなわち情報操作なのです。
気を感じるということは実際にはないものをあると認識しているということですが、ないものをあると思わせている時点で、情報の書き換えが起きています。
でも、気功ができないと情報の操作ができないのかと言えばそうではありません。
そもそも、人間は情報操作をする生き物なのです。
よくよく日常を観察してみれば、私たちはすでに自分の好きなように自由に情報を操作して生きています。
自分で勝手に解釈とストーリーをつけて、自分の周りで起きる現実の出来事をある意味自由に楽しんでいるのです。
人間の脳の最も特徴的で優れた機能は「ストーリーを作ることができる」という点です。
言い換えれば、物事に対して「解釈をする」機能があるということ。
例えばコーヒーが入ったマグカップが倒れて、中のコーヒーがほとんどこぼれてしまったという、その出来事に「最悪」とか「運が悪い」とか「吉兆だ!」とか、勝手に解釈が出来て、その解釈から自分だけのストーリーを描くことが出来ます。
ネガティブなストーリーは例えばこんな感じです。
朝一番のコーヒーがこぼれた、今日は幸先が悪いなと思ったらやっぱり上司に怒られたよ。
ポジティブな物語を作ることも出来ます。
コーヒーを飲めなかったことで別の何かもっと悪いことが起きる必要がなくなったかも知れない、ラッキーだ!
コーヒーがこぼれて服を洗ったから電車に乗り遅れてバスで通学するしかなかった、その結果大好きな○○さんと同じバスに乗れて話が出来た。
出来事は常に起きているだけに過ぎません。
私たちはさまざまな情報に意味づけをすることで情報に形や色を付けています。
ポジティブな解釈をし、ポジティブなストーリーを思い描ければポジティブなストーリーを生きるし、ネガティブな解釈をしネガティブなストーリーを思い描けばネガティブなストーリーを生きることになるのです。
コーヒーがこぼれた事に様々な意味あいや解釈をつけ、ストーリーを生み出すことが出来て、現実をポジティブにもネガティブにもできる。
これは情報を操作する能力以外の何ものでもないのです。
「コーヒーがこぼれた」という出来事から「コーヒーをカップいっぱいに入れたおまえのせいだ!このろくでなし」とか言って、相手を傷つけたり、
「せっかく買ったコーヒーをこぼしてしまった、なんてもったいないことをしたんだ自分は」とか言って自分を責めたり、
「コーヒーがこぼれた」という一つの情報を、好きなように解釈してストーリーを生み出し続ける、それが人間であり、そのストーリーによってこの世界は成り立っています。
そして、ストーリーを生み出す力があるからこそ、人は人として生きることがかなうのです。
楽しいことも辛いことも、切なさも甘さも、幸運も不運も、成功も失敗も、色んな体験が味わえて、色んなストーリーが体験できるからこそ、私たちは生きていることを味わうことができます。
解釈をしストーリーを生み出すということを情報操作として捉えれば、人間は普段から情報をいろいろに操作しながら過ごしているし、操作されたり、操作したり、人生もこの世界も情報操作の賜物であるといえるでしょう。
もしそのストーリーが自分にとって好ましくないなら、好ましいものに変えちゃえば良いよねというのが、氣功で「内部表現を書き換える」ということの前提にある発想です。
ですから、例えばネガティブな情報を氣の球にして召喚し、その氣の球に様々な働きかけをしてポジティブな印象に書き換えるというのが、氣功ヒーリングの基本的な方法です。
「観察」の力
気功にはその発祥をたどれば紀元前からの歴史がありますが、伝統的には気を高め、気を操るために身心の修練が必要とされています。
精神性、身体性を高めていくほど、強力な気を扱えるばかりか、気の扱いに長けることができるわけです。
三和氣功では、伝統的な気功やセルフヒーリングを実践することで身心の気を高めることを推奨していますが、気功を実践することやセルフヒーリングをすることの本質は「自己観察」を深めることです。
伝統的な気のワークを能動的瞑想ということがありますが、これは体の動きやイメージに合わせて気の動きや感覚の変化をひたすら観察するからです。
対象に気づくことにより、対象への認識は変化します。
認識は「観察」によって深まっていきます。
自分を観察するということは、人間を観察するということ、そして宇宙を観察するということです。
気を感じるということで重要なのは、「観察」なのです。
氣功を通して、自分の内側で何が起きているのか、自分の体に何が起こっているのかをひたすら観察するのが伝統的な気功やセルフヒーリングではとても大事な作業です。
実際にやってみると、観察するという行為自体が物事を書き換える力があることに気づくでしょう。
伝統的な気のワークは、内省し自己観察が起きるようにデザインされています。
ところが普段から解釈や意味付けをしストーリーを作ることになれている私たちは、この観察が上手に出来ません。
解釈したりストーリーを作ることが自動反応で起きるために、自分が勝手に解釈し、自らストーリーを作ってその中に入り込んでいることにすら気づかないことも多いのです。
観察することをもう少し色んな言葉で表現してみると、それは「感じること」や「意識を向けること」とか「気づくこと」です。
観察することはただ観ることであって、解釈したり、意味づけをしてしまっては観察とは言えません。
ただ観たり、感じたりすることによって、気づくこと。
これだけで認識に変化は起きます。
自分の体に何が起きているのか、自分の内側で何が起きているのか、それに意識を向け起きている事に気づけると、それだけで情報が書き換わるので、あとはどれだけ観察できるか、何を観察できるかがポイントになります。
観察する力を高めるため、観察する視点をより高くし、視野を広げるために私たちは学び、またセルフヒーリングや伝統的な気功に繰り返し取り組むのです。
そこに何を観るか、これが情報操作の本質であり、創造の本質なのです。
観察こそ、情報を操作するポテンシャルエネルギーを得るために最も重要なことであると言えるでしょう。
観察者のポジションを手に入れる
私たちが情報に解釈や意味付けを加えてストーリーをつくることと観察することは全く違うレベルの情報操作です。
私たちは現実を変えるため自分が望むとおりにストーリーを作り変えようとしてしばしば失敗します。
でなければ世の中の人はもっと幸せなストーリーを生きていても良いはずです。
ポイントは観察があるかないかです。
自らが作ったストーリーを生きている時、私たちは観察の目を持っていません。
何を観るのか。
ストーリーの中に埋没していると、見えているようで何も見えていないのです。
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。 マタイ13:14
観察したければ、解釈と意味づけとストーリーを作りその中に生きることを辞めれば良いのです。
目の前にあることを解釈せず、ただ起きたこと、在ることをそのまま受け取るのです。
このことを「止観」とも言います。
ありのままを受け入れるということをあきらめることと混同して誤解する人もいます。
そのままを受け取る、受け入れるということは、あきらめることや妥協とは違います。
あきらめや妥協には解釈がついています。
あきらめや妥協はストーリーの中にあることです。
思考の暴走が起きやすくどうしても意味付けや解釈をする癖が出てしまう人は「ラベリング」を試してみると良いでしょう。
頭の中に湧いてくる感情や思考にラベルを貼っていくのです。
これは悲しいという感情、これは褒められたいという願望、これは人は私にがっかりするだろうという私の解釈、これは○○さんの話声、これは怒りの感情… などといった風にです。
ストーリーの中にあり続けると、結局はストーリーの筋書きの範囲の内でしか情報の操作が出来ず、新たなストーリーを生み出すことは難しいものです。
自分がストーリーに縛られすぎていると別の新しいストーリーを創造するのは難しいと言わざるを得ません。
なので全く新しい創造を行うためには、一旦そのストーリーから出る必要があります。
観察とはストーリーから出てありのままを観る(無条件に観る)ことなのです。
ストーリーから出てはじめて私たちは、別のストーリーを選ぶことが出来ます。
観客は、舞台の上では物語を観ません。
舞台を見渡せる場所から物語全体を観ています。物語がつまらなければ別の舞台を見に行くこともできます。
無限の可能性に開く
解釈や意味付けは常に「条件付け」にもとづいておこなわれ、ストーリーを生み出します。
○○ならOK、○○ならNGといった具合に、何かを条件づけて観ている時、それは無限である全体のうちのごく一部の可能性しか認識できていないということです。
解釈や意味づけをするということは、物事の光と影のどちらかを選ぶ、どちらかしかフォーカスしないということと同じです。
これは優れている、これは劣っている、これは心地が良いから良い、これは心地が悪いからダメと解釈して陰か陽の一方のエネルギーしか扱えずにいるのです。
でも観察しありのままを受け入れることができると、良いか悪いか光か影かにはフォーカスしなくなるので、全体性を手に入れすべての可能性に開かれることになります。
観察に徹していると、無限に開かれたあらゆる可能性のダイナミックなエネルギーの動きや流れが作用する「場」にアクセスできるということです。
そこには、自分の力を越えた力が働く余地があります。
表面的な意識でとらえることのできる限られた領域を超えて、無限の力が創造を生み出すことにオープンになることにより、私たちはどんなストーリーからも自由になれます。
誤解をしないでほしいのは、意味づけをし、解釈をし、ストーリーをつくることが悪いことなのではありません。
これらはこの次元において私たちが人生を味わうためには大切なことであり、この世界の醍醐味でもあるのです。
でもそのストーリーの中に閉じこもっている必要はないと気づくことが大事です。
解釈や意味付けは、それがポジティブなものでもネガティブなものでも、実際には多かれ少なかれ私たち自身を特定のストーリーに閉じ込め縛り付ける可能性があります。
そのことを知っていることが、情報を操作すること、現実を変えていくことにおいては重要ですし、気功師が深く理解しておくべき知識です。
抽象度という概念を使って説明すると、観察する視点は抽象度が高いので、情報を書き換えるポテンシャルエネルギーが高く、操作が楽で簡単だということです。
逆に限られた視野の内側で操作しようとすればするほど偏り、不自由となって上手くいきません。
観察者とは調和を見出す者
起きていることを解釈せずにただ観察する、受け取るという観点を自分のなかに持つことが、自分の解釈やストーリーから速やかに自由になって、思いもかけない人生の展開を生み出すコツです。
思いもかけない、新しい創造が起きるにまかせるには、物事をありのままに見る観察者の視点が必要です。
物事をありのままに見るということは、陰と陽を等しい重要性で認識するということ。
世の中のネガティブな出来事にもポジティブな出来事にも価値や意味を見出せる視点を持つことです。
この世界はそもそもが矛盾で成り立っていますが、矛盾には必ず調和点があります。
陰と陽は表裏一体なので、どんなにネガティブなことに見えても必ずポジティブな面があります。
その全体の中心を捉えることが調和を見出すということです。
陰陽の調和からしか、変化も新しい創造も生まれません。
「陰陽なる者は天地の道なり、万物の綱紀(こうき)、変化の父母、生殺の本始(せいさつのほんし)、神明の府なり」 黄帝内経(中国の最古の医学書)
観察者の視点から行う新しい気功ヒーリングを模索する中で生まれたセラピーが陰陽バランシングヒーリングです。
※陰陽バランシングヒーリングについてはこちら
調和を見出し、コントロールを手放すことによって無限の可能性に開き、新しい創造を起こしてくという画期的なセラピーです。
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気功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。