心(マインド)と気功 気功について

本当の自分の氣の使い方~何のために「覚醒」するのか「中観」について考える

覚醒とは?

最近は「覚醒」というキーワードをよく見かけます。

覚醒という言葉を多くの人が使うようになったということは覚醒したと自覚する人が増えたということ、そして覚醒したい!と考える人が多くいるということでしょう。

ただ人によって何を覚醒と言っているのかは、まちまちであるという印象を受けます。

その人の視点によって、覚醒のとらえ方も違ってくるのは当然ですね。

覚醒とは、目覚めることであり、悟りであるともいえると思いますが、何に目覚めるのか、何を悟るのかは、その人の視点、ゴールや目的によるということです。

少なくとも、覚醒することによって「今自分だと自覚している自分は限定的な自己認識に過ぎないということ」が理解できるようになるはずです。

自分や世界への認識が広がり、限定された世界や自分から自由になることが「覚醒」の基本的な目的でありメリットであると言えるでしょう。

 

人間の限界を超える

覚醒するということは、自分の限界、人間の認識する領域の限界を超えるということでもあります。

人間はどのようにして「限界」を認識しているのか。

人間は思考と感情、そして身体によって「限界」を作ります。

覚醒し限界の外にいくためには、まずこの思考や感情、そして身体が幻想にすぎないと理解することが必要です。

自分が自分自身やこの世界について感じている「リアリティ」は、思い込みの産物です。

私たちが自分そのものだと錯覚しているこの身体も絶対にある物だとは言い切れない。

なぜならそれは、脳があると認識しているだけで、脳がなくなってしまえばあるのかないのかすら確認のしようがない。

だから、この世界は絶対ではない、つまり幻想だ。

そんな理屈は、最先端の科学を用いれば現代人なら簡単に理解ができます。

ただそれは頭で理解できたレベルであって、身体を持った自分という存在を幻想だと確信するには、通常はなかなか難しいものです。

なので、悟るための意識状態を作り出す様々な方法(修行法)が実践されてきました。

気功を学ぶときによく出てくる「変性意識」は、自分の認識を広げ、限界を超えるために必要です。

変性意識が深まると、私たちの脳は通常の状態とは違う認知を生み出すようになります。

例えば幻覚を見るとか、時空間を超越するなどといった認知が起きるのです。

通常の意識で認識できる限界を超える変性意識をつくるため、例えば厳しい修行などで極限状態を体験したり、瞑想をしたり、時には薬物も役に立ちます。

通常の認知の限界を超えると、感情や思考が遠のき、身体意識が薄れ、「純粋な意識」として世界が認識されるようになると、この物理的な世界は単なる幻想にすぎない、空であるということへのリアリティが感じられるようになる、つまり悟ることができるわけです。

そしてこれを「覚醒」の最終到達点であると認識されていることが多いのではないかと思います。

でも、何のためにこの境地に至るのでしょうか?

人間にとって、この境地に至った先は果たしてあるのでしょうか?

私としては、そこが一番重要だと思うところです。

 

覚醒のもたらす真のメリット

覚醒とは、「個」としての自分というものが「空」であり、ゆえに無限であると自覚することです。

つまり、自我(エゴ)の支配から自由になるということ。

言い換えると思考、感情、身体の制限から自由になるということです。

またこれを別の言葉で表現するとこの世界を観る純粋な「意識」だけが不変にある、それがすべてであることを自覚することです。

純粋な意識そのものになる時、ネガティブな感情も思考も身体感覚さえ消失するといいます。

本当は、限界から自由になるのではなく、そもそも最初から限界などなかったこと気づくのです。

そもそも最初から一つであったことに気づくのです。

そして、分離することで成り立っているこのリアルな物理世界が真実ではなく、幻想であることを悟ります。

このような認知は、変性意識が深まることにより起こります。

なので、将来的に脳波の意図的なコントロールテクノロジーが発達したら、別に覚醒を人生のテーマになんかしなくても誰でもこの境地に至ることが可能になることでしょう。

なのでそれは時代と人類のテクノロジーの進化に任せておいてもよいことであるとも言えます。

むしろ私たちが頭を使って考えるべきなのは、この世界が幻想で、有限ではなく無限であると目覚めることが覚醒だとしたら、何のためにその限界を超え、幻想に目覚めたいのかということなのです。

限界があるということ、すなわち私たちが体験する苦しみや悲しみ、そして「死」は、乗り越えるべきネガティブなもの、悪いものなのでしょうか。

この苦しみを超越することが覚醒することの目的なのでしょうか?

限界や有限におびえる我々は覚醒によって無限や永遠を手に入れあらゆる苦しみから自由になる必要があるのでしょうか?

そうではありません。

苦しみから自由になることではなく、この世界は空である(全部妄想にすぎない)ということのかけがえのない素晴らしさを真に理解することが覚醒することの目的であり、メリットです。

限界があることは私たちに苦しみや悲しい、また恐怖をもたらすものなのかもしれません。

人間の限界の最たるものは「死」であり、死への恐れこそ人間のあらゆる悩みや苦しみの根源にあるものだといえます。

当然人間にとっての死は単なる物理的な死だけではなく、情報的な存在価値の喪失をも含みます。

覚醒することのメリットは、限界や分離を超越することそのものではなく、それによって「限界」のあるこの世界を無条件に楽しみ喜べるようになることです。

限界があること、有限であることを通して無限の力を味わう、分離することを通して一つであることの愛を味わう、これこそが本当は無限である私たちの意識の本当の喜びであり、人間問う存在の真の価値ではないでしょうか?

「純粋なる意識」である「私」が有限のこの世に生きることのたった一つの目的は、あえて有限の世界のなかで無限や永遠を表現することです。

苦しみや困難を通してしか味わえないものがある。

分離や対立を通してしか創造できないものがある。

違いますか?

「私」の魂は何を味わい、何を創造したいと思ってこの世界に存在しているのだろうか?

覚醒することそのものよりも本当はその答えを求め続けることが重要です。

 

天神合一の先にみるもの

氣功では、個としての自分である「小我」が大いなる自己である「大我」と一つになることを目指します。

それが天人合一です。

肉体を持った個としての自分が大いなる自己の本質と一つに統合されるとき、大いなる根源の意識が「自分」という存在を通して表現したいように生きることになります。

小我である自分が大我とともに生きていくこと。大我が小我を通して世界を創造すること。

これが無為自然です。

宇宙(大いなる根源)は私であり、私は宇宙(大いなる根源)である、このことに覚醒することが氣功の本質的ななゴール(目的)です。

小我と大我が一つになってこの世界を生きることに意義があるとみなすことを仏教では「中観」と言います。

永遠や無限の存在が有限の世界で表現をすることに意味があると知って生きることが大切なのです。

本当は一つの意識である私たちが、全く違う意見や価値観をもって共に生きることに面白さがあるのです。

それがこの世に生きることの醍醐味でしょう。

 

 

 

 

苦しい修行の場である現世から解脱することではなく、今自分がいる世界が面白い創造の現場であることに目覚めることが、現代人に必要な覚醒です。

この世の真理とは、世界のすべてが思い込みと設定であることです。

それを氣功では「全部氣のせい」といい、仏教では「空」だといいます。

あらゆることはただの設定であり、妄想でしかないのです。

絶対的な真実などはありませんし、体験している個々の「自分」という意識も、思いこみと設定でしか成り立っていない、つまり「自分」などないのです。

そこを深いレベルで受け入れると、私たちはあらゆる限界と葛藤から自由になり、恐れから自由になります。

それは、厳しい修行をしなくても、学問的な言葉で自己理解を深めていけばこの時代に生きる私たちには十分論理的に理解可能なことです。

すでに「覚醒」はすべての人にとって身近で可能なものになりました。

今後、さらに当たり前のことになっていくことでしょう。

だからこそ、私たちが本気で向き合いたいのは、覚醒そのものより、自分を通して創造されるべき世界はどんな世界か、幻想である前提でどんな世界を創りたいのかということなのです。

 

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