―― AI時代に「立ち位置」を取り戻すという選択
第1章|AI時代の課題は、すでに始まっている
AI時代の課題は、
これから先に起きる未来の話ではありません。
すでに、
私たち一人ひとりの生活の中で、
静かに始まっています。
それは、
世界の情報密度と速度が、
人間の身体設計を超え始めている
という問題です。
私たちは今、
生きているだけで、
膨大な量の情報に触れています。
何を選ぶか
どう進むか
どれが正しいか
考えなくてもいいはずの判断を、
無意識のうちに、
何度も求められ続けている。
しかも、
答えの候補はいつも整っている。
検索すれば出てくる。
比較すれば順位がつく。
AIに聞けば、
もっともらしい答えが返ってくる。
一見すると、
とても合理的で、便利な環境です。
けれどその一方で、
こんな感覚を抱く人が増えています。
決めたはずなのに、どこか引っかかる。
合っているはずなのに、身体が重い。
休んでも、深く回復しない。
これは、
気分の問題でも、意志の弱さでもありません。
情報の速度に、
身体のリズムが追いついていない。
そのズレが、
生活の奥で蓄積しているだけです。
ここに、
考えることが得意な存在――
AIが加わりました。
AIは、
判断を早め、
選択肢を洗練させ、
迷いを減らしてくれます。
けれど、
AIにはひとつだけ、決定的にできないことがあります。
それは、
身体を持たないという理由から生じています。
身体を持たないということは、
判断が生まれる前に起きている、
違和感
確かさ
緊張や、ゆるみ
そうした微細な感覚を、
体験できないということです。
人間は本来、
身体が先に反応し、
その感覚を手がかりに、
考え、判断します。
けれどAIは、
その「手前」を知ることができない。
だからAIは、
人がどこから世界を見ているかを
感じ取ることができません。
不安な位置から投げられた問いには、
不安を整理して返す。
焦りの位置から使えば、
焦りを合理化して返す。
AIは常に、
使う人の立ち位置を、そのまま増幅する鏡です。
つまり今、
多くの人が気づかないまま、
「考えている頭の高さ」から
人生を操作し続けている。
その結果、
賢くなればなるほど、
自分の人生から遠ざかる
という逆説が起き始めています。
だからこれは、
AIをどう使うか、
という話ではありません。
人が、どこから世界を見ているか。
その位置そのものが、
いま、問われているのです。
第2章|なぜ「考えるほどズレる」感覚が増えているのか
思考が固定化されていく
情報が増え、
判断の精度が上がり、
選択肢も豊富になった。
それなのに、
「考えれば考えるほど、ズレていく」
そんな感覚を抱く人が増えています。
これは、
考えること自体が悪いからではありません。
考えている“位置”が、
固定されてしまっているからです。
人は本来、
身体で感じる位置、
感情が揺れる位置、
思考で整理する位置、
それらを観ている位置を、
自然に行き来していました。
けれど、
情報量と速度が上がり続ける中で、
私たちは無意識のうちに、
「考えている位置」だけに
張り付くようになった。
情報が増えるほど、視点は固定される
一見すると、
情報が増えれば増えるほど、
物事は多角的に見られそうに思えます。
けれど実際は逆のことが起きています。
情報が過多になるほど、
人は処理しやすいひとつの視点に
固定される。
なぜなら、
多層的に認知するには、
感じる
迷う
立ち止まる
揺れを含んだまま待つ
といった余白が必要だから。
即断・即答・即最適化が求められる環境では、
視点を行き来する前に
「答え」が要求されてしまう。
その結果、
多角的に見ているつもりで、
実際には
ひとつの高さからしか
世界を見られなくなる。
情報は「支え」から「拘束」に変わる
ここで起きているのは、
情報そのものの問題ではありません。
情報との関係性の問題です。
問題は、情報の量ではなく、
私たちがどこからそれに触れているかです。
たとえば健康。
身体を大切にしたい、
元気でいたい、
その思いから集めたはずの健康情報が、
いつのまにか
「これを食べてはいけない」
「これをしないと危険」
というルールに変わっていく。
結果として、
健康のために、
心と身体が緊張し続ける。
健康オタクが、
かえって不調を抱える。
これは珍しい話ではありません。
同じことは、
信仰や思想の世界でも起きています。
本来は自由になるための教えが、
「正しくあらねばならない」
「間違ってはいけない」
という枠に変わる。
その瞬間、
信じることで、かえって自由を失っていく。
ここで起きているのは、
特別な人の失敗ではありません。
とても人間的で、自然な反応です。
不安が、ひとつの軸に人を縛る
なぜ、こうなるのか。
情報が多すぎると、人は不安になります。
不安になると、
ひとつの確かな軸にしがみつきたくなる。
それが、
健康情報であり、
成功法則であり、
信仰であり、
AIの答えです。
本当は
「支え」だったものが、
いつのまにか
「拘束」に変わる。
そして、
自分の内側にあったはずの
感覚や判断軸を、
外に明け渡していく。
そして今、
この構造を
一気に加速させる存在が現れました。
AIは、この構造をさらに強化する
AIは、
整理し、
比較し、
言語化し、
答えを提示する。
だからこれから、
AIはますます
「簡単に答えや結果をくれる存在」
として使われやすくなる。
問題は、
どこからAIと関わっているかです。
AIを、
外にある答えの源として使うのか。
それとも、
自分の内側を映し出し、
引き出してくれる鏡として使うのか。
プロンプトが「思考停止」を生む
いま、
AIのプロンプト――
問いの立て方そのものが、
必須スキルのように語られ始めています。
これは、
技術の話ではありません。
人の「考え方の癖」の話です。
どう聞けば、
良い答えが返ってくるか。
それ自体は、
決して悪いことではありません。
けれど同時に、
こんな現象も起き始めています。
問いの立て方そのものが、
固定化されていく。
「この型が正解」
「こう聞くべき」
そうしたフレームが増えるほど、
人は自分の内側で
問いが生まれる前に、
自分の内側で答えが生じる前に、
型を当てはめるようになります。
その結果、
考える回路が、
静かに外に移動していく。
つまり、知らない間に
深刻な「思考停止」構造が強化されていくのです。
思考停止は、
「奴隷」的な内部構造を増長します。
中心が空洞化する、という現象
これは、
効率化の裏で
静かに起きている変化です。
たとえば
提出するべき感想文やレポート文章を
最初からAIに任せてしまう。
発信の内容を、
自分で感じ切る前に整えてもらう。
迷いや違和感を、
即座に言語化してもらう。
こうした使い方は、
すでに珍しくありません。
言葉はきれい。
構成も整っている。
でも、
どこから出てきたのかわからない。
これは表面的には効率化に見えますが、
内側で起きているのは、
中心が空洞化するという現象です。
身体を通らないまま、
思考だけが前に進んでいく。
AIが「外在化した権威」になるとき
もうひとつ、
別の形もあります。
AIを
「使う道具」ではなく、
外在化した権威として扱ってしまうこと。
正しいかどうか
間違っていないか
最適解はどれか
その判断を、
すべてAIに委ねてしまう。
相談しているつもりが、
気づかないうちに
依存の構造が生まれていく。
決める前に聞く。
迷ったら聞く。
不安になったら聞く。
出された答えを「正解」にする。
それはとても楽です。
でも、
「感じる」「待つ」「揺れる」
という時間が、
生活から消えていきます。
「答えをくれる道具」か、「内側を映す鏡」か
正解をくれる道具か、内側を映す鏡か。
これからの時代、
AIとどうかかわっていくのかが
私たちの人生そのものの質を大きく左右するようになるでしょう。
前者の場合、
AIとの関係は自然と、
聞く
使う
させる
お願いする
任せる
という形になりやすい。
判断は早くなり、
形は整い、
効率も上がる。
けれどその分、
感じること
迷うこと
確かめること
が、静かに省略されていく。
その結果、自分の人生を生きる力はどんどん奪われていく。
後者の場合、
AIは答えを出す存在ではありません。
問いを投げ返し、
視点をずらし、
思考の癖を照らす存在になります。
対話する。
議論する。
一緒に考える。
共に創る。
そのやり取りの中で、
「私はどこから、この問いを投げているのか」
という位置に、
自然と意識が戻ってくる。
その結果、
自分の視野は拡大し、
自分の本当の価値や能力を
外に引き出す形で世界と関われるようになっていく。
問われているのは、使い方ではなく立ち位置
だから、いま必要なのは
さらに正しい情報を集めることではありません。
どの情報を選ぶか、でもない。
AIを遠ざけることでもない。
情報と距離を取れる位置に、
自分が戻ること。
そのために必要なのが、
視点を増やすことではなく、
視点を行き来できる余白。
感じる
立ち止まる
揺れる
確かめる
こうした時間を取り戻さない限り
私たちはますます自由を失い、
自分らしさを見失い、
人生は疲弊と虚無感に覆われていってしまうかもしれません。
人を自由にするのは外にある情報ではありません。
それは自分の中心にあるのです。
そこに立ち還るために
大切なのは、
一度、いまの自分の
立ち位置そのものを揺らすこと。
「考えている私」から、
もう一段深い場所へ。
身体ごと戻ること。
第3章|人生はここから、静かに分岐していく
ここまで見てきた変化は、
一部の人にだけ起きている特別なことではありません。
情報過多。
判断の高速化。
AIの浸透。
これは、
これから避けられない環境です。
だから人生は、
ある瞬間に劇的に変わるのではなく、
気づかないうちに、静かに分岐していく。
ひとつ目の道
── 頭で最適化し続ける人生
ひとつは、
情報とAIを使いこなし、
頭で最適化し続ける道。
判断は早い。
無駄も少ない。
効率も高い。
社会的には、
「うまくやっている」ように見える。
けれどこの道では、
人生は少しずつ
操作対象になっていきます。
もっと良くできるはず。
まだ足りない。
次は何を改善すればいいか。
問いは止まらず、
身体は置いていかれる。
疲れているのに、
止まれない。
選んでいるのに、
どこか選ばされている感じが消えない。
この道は、
成功も不成功も含めて、消耗が前提になります。
ふたつ目の道
── 身体がブレーキをかける人生
もうひとつは、逆の形で現れます。
動けなくなる。
選べなくなる。
やる気が出なくなる。
一見すると、停滞や後退に見える。
けれどこれは、
怠けでも、弱さでもありません。
これ以上、
頭の速度に付き合えない
という、身体からのブレーキです。
無理に進もうとすると、不調が出る。
頑張ろうとすると、ますます重くなる。
この道に来た人は、
「何かが間違っている」と感じやすい。
でも実際には、
身体のほうが先に真実を知っている。
みっつ目の道
── 立ち位置を変えるという選択
そして、
もうひとつの道があります。
それは、
頑張って最適化することでも、
止まってしまうことでもない。
立ち位置を変えるという選択。
考えることをやめるのではなく、
考える“前”に戻る。
答えを探すのではなく、
問いが生まれる場所に立ち戻る。
身体で感じ、
揺れを含み、
確かめながら進む。
この道では、
人生は操作対象ではありません。
関わるものになります。
立ち位置が変わると、起きること
立ち位置を変えたからといって、
人生が劇的に好転するわけではありません。
けれど、
確実に変わるものがあります。
判断が遅くなるのではなく、
迷いが減る。
何もしなくなるのではなく、
余計なことをしなくなる。
選択肢が減るのではなく、
選ばなくていいものが自然に外れる。
必要な関係は残り、
無理な関係は、揉めずに離れる。
頑張って掴まなくても、役割が巡ってくる。
これは運が良くなったのではなく、
摩擦が減っただけ。
分岐は、もう始まっている
この三つの道は、
これから現れる未来ではありません。
すでに、
多くの人が
どこかに足を踏み入れています。
大きな決断は必要ない。
宣言もいらない。
ただ、
どこから人生に関わっているか。
その小さな違いが、
時間をかけて
大きな差になっていく。
次の章では、
この「立ち位置を変える」という選択が
氣功とどうかかわってくるのか。
無為自然とは何か。
「本当の自分を生きる」とはどういうことか。
三和氣功が
なぜこの道を選び、
何を実践として差し出しているのか。
そこを、
もう一段深く見ていきます。
第4章|無為自然という立ち位置
──「本当の自分を生きる」とは何か
ここまでで見てきた
「立ち位置を変える」という選択。
それは、
生き方を変えることでも、
考え方を入れ替えることでもありません。
どこから人生に関わるか
その位置が変わる、ということでした。
このとき、
その在り方をもっとも美しく表現した言葉が
無為自然
です。
しかし、この言葉は
とても誤解されやすい言葉でもあります。
無為自然は、「何もしない」ことではない
無為自然という言葉は、
しばしば誤解されます。
何もしない。
努力しない。
流れに任せる。
現実から降りる。
そういう意味ではありません。
道徳経 には、
こんな言葉があります。
無為而無不為
為さずして、為さざることなし。
これは、
人が操作をやめたとき、
道(タオ)の働きが前に出る
ということです。
変えようとしない。
押し出さない。
先回りしない。
それが「陰」。
けれど同時に、
必要なことは起き、
流れは止まらず、
結果は自然に現れる。
それが「陽」。
無為自然とは、
動かないことではなく、
余計な動きを手放す立ち位置なのです。
つまり
操作しようとする位置から降りること。
もっと正確に言えば、
「変えようとする私」から、
「すでに起きている流れと共にある私」へ
立ち位置が移ること。
そこでは、
行動が消えるわけではありません。
むしろ、
余計な行動が自然に落ちていく。
「本当の自分を生きる」とは、何者かになることではない
「本当の自分を生きる」と聞くと、
特別な才能や使命を思い浮かべる人もいます。
でも、
ここで言う「本当の自分」は、
何かを足した先にあるものではありません。
削ぎ落とした先に残る位置です。
正しくあろうとする前。
評価されようとする前。
うまくやろうとする前。
考えが動き出す、
そのさらに手前。
そこに立つと、
人生は「操作する対象」ではなく、
関係性として立ち上がってきます。
なぜ、氣功なのか
では、
なぜ三和氣功は、
この立ち位置の話を
「氣功」という形で扱っているのか。
理由は、とても単純です。
立ち位置は、頭では変えられないから。
どれだけ理解しても、
どれだけ納得しても、
身体の位置が変わらなければ、
人は元の場所に戻ります。
氣功は、
何かを足すための技法ではありません。
気合を入れるためのものでも、
能力を高めるためのものでもない。
身体ごと、
「戻る位置」を思い出すための実践です。
身体は、すでに知っている
頭が混乱しているときでも、
身体は、
どこが無理かを知っています。
焦っているとき、
呼吸は浅くなる。
正解を探しているとき、
身体は固くなる。
逆に、
立ち位置が戻るとき、
呼吸が深くなる。
力が抜け、
視野が広がり、
時間の感覚が変わる。
氣功で起きているのは、
不思議なことではありません。
本来の位置に戻ったときに
自然に起きる反応です。
三和氣功が差し出しているもの
三和氣功が
差し出しているのは、
答えではありません。
癒しでも、
成功法則でも、
変化の保証でもない。
差し出しているのは、
立ち位置に戻るための「場」と「実践」です。
その場で、
何かを得なくていい。
変わろうとしなくていい。
ただ、
どこから人生に関わっているかを、
身体で確かめる。
その繰り返しの中で、
人生は、
無理なく調っていく。
人生は、「在ること」から動き出す
無為自然とは、
何もしないことではありません。
「在ること」から動くこと。
本当の自分を生きるとは、
特別な生き方をすることではありません。
自分の人生に、
自分がちゃんと在ること。
そこに立つと、
AIも、情報も、思考も、
道具として自然に使えるようになる。
振り回されることも、
依存することもない。
それが、
三和氣功が選び続けている流れです。
終章|自分の人生に、自分がちゃんと在る
── AIと氣功を「鏡」として使うということ
ここまで見てきたように、
AIや情報そのものが、
人を迷わせているわけではありません。
問題は、
どこからそれらと関わっているかでした。
答えを外に求め、
正解にすがり、
最適化し続ける位置に立てば、
AIも、情報も、
やがて人を縛るものになる。
けれど、
立ち位置が変わると、
同じものが、まったく違う働きを始めます。
鏡として使う、という関わり方
AIを「鏡」として使う。
それは、
正解を映してもらうという意味ではありません。
自分がどんな問いを立てているのか。
どんな前提に立って考えているのか。
どこに焦りがあり、
どこに恐れがあるのか。
それらを、
はっきり映し返されるということ。
AIとの対話は、
自分の思考の癖や、
立ち位置のズレを
浮かび上がらせます。
それに気づけるかどうかは、
AIの性能ではなく、
こちらの在り方にかかっている。
氣功もまた、鏡である
氣功も同じです。
氣を「操作する」ものとして使えば、
そこでもまた、
正解探しや依存が起きます。
けれど、
氣功を鏡として使うとき、
身体は嘘をつきません。
力んでいれば、すぐに分かる。
焦っていれば、呼吸が乱れる。
正しさに固執していれば、身体は固まる。
氣功は、
「どうすればうまくいくか」を
教えてくれるものではなく、
今、どこに立っているかを
身体ごと教えてくれる実践です。
自分の人生に、自分がちゃんと在る
AIと氣功。
一見まったく違うものに見えますが、
三和氣功では、
どちらも「鏡」として扱います。
答えを与えるものではなく、
導くものでもない。
ただ、
自分の立ち位置を
そのまま映すもの。
その鏡の前に立ち続けると、
少しずつ、
人生の関わり方が変わっていきます。
無理に変えなくてもいい。
頑張らなくてもいい。
ただ、
自分の人生に、
自分がちゃんと在る。
その位置に戻ると、
情報も、AIも、思考も、
自然に道具になる。
振り回されることも、
依存することもない。
技術の時代に、在り方を取り戻す
これからの時代、
AIはますます身近になり、
世界の速度は、さらに上がっていきます。
だからこそ、
何を使うかよりも、
どこから使うかが、
ますます重要になる。
三和氣功が選んでいるのは、
答えを持つ道ではありません。
「在る」という立ち位置を、
身体で確かめ続ける道です。
それは特別な生き方ではなく、
とても静かで、とても現実的な選択。
人生は、
操作しなくても、
ちゃんと動いている。
その流れと共に在ること。
そこから、すべてが始まります。
この文章を読みながら、
もしどこかで
「これは頭だけでは分からないな」
と感じたなら、
体験として確かめる場を用意しています。
▶︎【体験版】考えるAIと、感じる身体
―― 抽象度が切り替わる90分
この体験は、
AIと氣功を
「使いこなす」ためのものではありません。
本講座では、
この立ち位置を日常に根づかせるための
実践と対話を、
もう少し長い時間をかけて扱っています。
この文章で触れている
「立ち位置を身体で確かめる実践」は、三和氣位功の様々な場で扱っています。
⇒ 月例瞑想会
⇒ アクティブメディテーションオンライン氣功教室
⇒ 伝統氣功プライベートレッスン
必要なタイミングで、
こちらから辿ってください。
馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。