罪悪感を越えて、本来の自己へ還る
自分を責める心の奥には、
本当は“愛したかった”という想いが眠っています。
感謝と赦しは、その想いを静かに光へと変える旅。
あなたの魂が再び調和へ還るための、4つの扉をひらいていきます。
罪悪感という分離の記憶
「あのとき、あんなことを言わなければよかった」
「私のせいで誰かを傷つけてしまった」──
私たちは誰もが、心の奥に罪悪感を抱えています。
罪悪感とは、自分を愛せなくなった瞬間の分離の記憶です。
罪悪感は、何かを守ろうとした優しさの裏返しだったり、自分の影(弱さや醜さ)を見つめる勇気です。
だからこそ、罪悪感を抱えることはそれ自体が統合への入口なのです。
でも、過去の一点にエネルギーが固着し、現在の流れが止まってしまうので、どれほど努力しても心は軽くならず、
「自分を責めることでしか、つながりを感じられない」状態が続きます。
罪悪感の構造 ― 責めることでつながりを保つ心
人は、ときに自分を責め、人から責められるという痛みを通してでも、
誰かとつながっていたいと願います。
それほどまでに、私たちは愛を求めているのです。
罪悪感の根底にあるのは、愛への渇望。
認めてもらいたかった、わかってもらいたかった、愛し合いたかった。
責めるということは、未熟な形の愛の表現。
傷つけあい、痛みを共有することでしか“つながり”を感じられないとき、
魂は「分離を通してでも愛を知りたい」と望んでいる。
──その魂の叫びは、どこか切なくて、でもとても尊いものです。
だから、罪悪感は“悪い心”ではなく、
愛を思い出そうとする未完のエネルギーなのです。
この仕組みを氣功的に見れば、
陰(責める)と陽(愛したい)が内側でせめぎ合い、氣の循環を止めている状態。
けれど、そのせめぎ合いの中心には、
いつも「愛しあいたい」という生命の衝動が流れています。
氣功の世界では、その衝動こそが“本来の氣”──つまり、陰陽が躍動し天地とつながる生命のリズム。
赦しは「分離を統合する」こと
赦しとは、受け入れがたいものをなかったことにすることではありません。
それは、その経験を抱きしめることです。
「罪」という言葉で人間は自分たちの残酷さや醜さ、弱さを切り離しますが、罪から人間を救うのは、人間と言う存在の闇を自己の一部として迎え入れること。
それが赦すということ。
闇を否定せず、ただそこに在ることを許す光──それが赦しの本質です。
どんな過去も、今のあなたを形づくった氣の流れの一部。
拒むほどに分離が深まり、受け入れるほどに統合が起こります。
氣功では、陰と陽は対立ではなく互いを生かし合う力。
痛みと愛もまた、その両極です。
陰と陽は互いを照らし合う存在。
痛みがあるからこそ、愛の深さがわかり、愛があるからこそ、痛みが癒される。
光と闇の両方を抱くとき、氣は静けさの中へと還り、
魂は本来の調和を取り戻す。
「私はこのままで完全だった」と気づくとき、
断片化していた自己がひとつに溶けていきます。
罪悪感は祝福に変わる
罪悪感を赦し、受け入れることができたとき、
私たちは本当に深い部分で自分を愛することができるようになります。
それは過去を正当化することではなく、
その体験すべてを“生命の流れ”として抱きしめること。
罪悪感の奥には、いつも愛がありました。
その愛を思い出した瞬間、
罪悪感はもう「罰」ではなく、自分という生命の深さを知るためのギフトとなります。
赦しとは、愛を取り戻す道。
そして、自己受容とは、愛そのものとして生き始めることです。
それは自分と言う存在を通して現れる生命への祝福なのです。
本当の自分を生きる氣功プログラムへ
もしあなたが、
「もう罪悪感に縛られず、本当の自分として生きたい」
「愛と静けさの中で、現実を調和させたい」と感じているなら──
三和氣功の《本当の自分を生きる氣功プログラム》をのぞいてみてください。
氣功の学びと実践を通して、
身体・心・魂を整え、“本当の自分”として生きる力を育てていきます。
馬明香(ま あすか)
氣功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。