この記事は、
・エフィカシーが上がらないのはなぜ?
・自分を責めたりダメだなと思ってしまう
・自己肯定感が低いと思う
・生きづらい
・願望実現は難しい
・ゴールの臨場感が上がらない
・縁起や陰陽論について知りたい
という人に参考になる内容です。
この世界は矛盾で成り立っている
生きていくなかで、出来るだけ苦しいことは避けたい、皆そう思っていますね。
けんかしたくない、別れたくない、失敗したくない、嫌われたくない、病気したくない… だけど、それを避けようとすればするほどそうしたネガティブなエネルギーの存在感は大きくなります。
もし、満たされた気持ちで生きていくことを望んでいるのなら、ネガティブな出来事やネガティブな感情はなくそうとしてもなくならないということをまず受け入れましょう。
なぜなら、この世界は矛盾で成り立つ世界だからです。
対極のものとの比較の中でしか物事は存在できない、そういう仕組みで成り立っている世界なのです。
人間は何かと比較することでしか物事を認識出来ません。
幸せの感覚はその真逆を知らないとわからないように、あらゆる矛盾の中に私達の世界は成り立っているのです。
だから、苦しみや辛さだけを避けようとしても意味が無いし、矛盾をただそう、無くそうとしても意味がありません。
陰陽は一体であって同じものである
中国の哲学では、こうした矛盾の世界を「陰陽論」で説明しましたし、釈迦は「縁起」という言葉で表しました。
一つ一つの物事は必ず何かとの関係性の上に成り立っていて、仏教ではそれを「縁」といいます。
中国の哲学では関係性を「陰」と「陽」という対の概念でとらえました。
陰と陽は相対的なもので、条件によって陰にも陽にも変化しうるものです。つまり、あらゆる物事の関係性は陰陽の間でゆらぎ続けているのです。
仏教ではこのことを諸行無常と言います。何事も定まることがなく変化し続けるという意味です。
ですから、自分に起きる一つ一つの体験や感情に、優劣や善悪の評価をすることは、本質的な意味を全く持ちません。
それには絶対的な意味や価値がないからです。
何が優れているのか、何が悪くて何が良いのかは、今のあなたの視点で勝手に感じている事でしょ?って話です。
病気であることが悪い? そうとはかぎらないのです。
恋人とわかれた辛さは不幸? そうとは限らない。
不幸とか悪いとかそれはあなたの視点で今そのように認識しているだけに過ぎず、そもそも、不幸とか悪いとかに優劣や良い悪いなどは時間や場所によっていくらでも変わってしまうものでそこに絶対的な意味があろうはずがありません。
試しにコインを財布から取り出して眺めてみて下さい。コインの裏表に優劣があるでしょうか?善悪があるでしょうか?
仮に表を優、裏を劣だと決めてみたとして、財布から取り出したときに表がでたからこのコインは価値がある、裏が出たときには価値がないってことがあるでしょうか?
そんなことはないはずです。
表が出ようが裏が出ようが、表裏一体としてコインは存在しています。
どちらが出ても、どちら側からみてもそれはコインであることには変わりが無く、コインの価値があるのです。
物事と物事同士は光と影のような関係で、分離対立しているようでいて実は不可分なものなのです。
この世界のあらゆる概念は光と影のように不可分で、しかも光と影は相対的である、というのが縁起や陰陽が表す世界です。
だから、人生で、良いこととだけを手に入れようとしたり、悪いことだけを排除する試みや、自分や誰かや物事を様々な基準で評価したり判断したりすることは、縁起や陰陽の世界の中ではさして重要な意味を持たないし、それにこだわることは非常に滑稽なことであることを知らないといけません。
表と裏を同時にみる、その視点がポイント
では、人生の苦しみや不条理から私達は決して救われることはないのでしょうか?
そんなことはありません。
コインをただコインだと認識するその視点を人生に対しても持つことが出来れば良いのです。
コインを見ているとき、表も裏も同時に見ています。というより、どっちが裏で表かなんかさほど気にしてませんよね。
表がレベルが高くて裏はレベルが低いなんて誰も思わないし、取り出したときにコインが表だったら価値があり、裏だったら価値がないなんて思いませんよね。
どちらから見てもそれはコインです。
コインはコイン。裏であろうが表であろうがどっちでも良いし、どうでも良いはずです。
この感覚、この視点が、苦しみだらけ、不公平だらけ、うまくいかないことだらけ、嫌なことだらけの人生から足を洗う大切な鍵となります。
自分のあらゆる認識、体験も、陰か陽かの天秤にかけることなくありのままに観て受け入れることです。
私達が生きることに不条理を感じたり、虚しさや辛さを感じたり、罪悪感や恐れを感じたり、物事を批判したり、希望が持てないなどと感じるのは、自分や誰か、身の回りのあらゆることを、無意識に良い悪いの天秤にかけてはかっているからです。
何が悪い、何が良い、何が優れていて何が劣っている、どうしたら偉くてどうだったら偉くないのか、そういう基準は、この世界を支配するルールや法則や絶対的な価値などではなくて、ただ成長する過程で周りの人達から学んで受け入れた基準でしかありません。
それは普遍的な基準ではなくたまたま今のあなたが採用している情報でしかありません。
動物は傷を負って痛みを感じても自分を不幸だと思って人生を嘆いたりはしません。
コロナが大流行しようが、種が絶滅しようが、それで虚しさや罪悪感や不条理を感じて悩んだりしません。誰かを恨んだりもしません。未来を憂えたりもしません。
それは物事をありのままに体験するからです。
そこに意味や意義を見いだす能力が無いだけです。
人間は一つ一つの出来事や物事を、自分にとってどんな意味があるのかで条件づけてつけてみる能力を持っています。
何か良いのか悪いのか、自分とどのような関係にあるのか、どのような意味があるのか、そのようにして世界を認識するのです。
良いか悪いかなどの条件付けは、その人が無意識にどんな基準を設定しているかによって変わります。
一人一人がそれぞれの基準で物事を判断し評価しているだけで、絶対的な真実はどこにもありません。
ポジティブにとらえようがネガティブにとらえようが、本当はどっちでも良いのです。
陰陽は相対的であるというのは、絶対的な真実が存在しないということと同じです。本質的にはたいして差は無いのです。
極端な例を出せば、「死ぬこと」は今この時代の日本に生きる私達には絶対的ネガティブのように感じますが、自ら命を絶つことが名誉になったりすることもありますし、生きることより死ぬことの方が楽かもってこともあり得ます。また誰かの死が深い教訓や学びを多くの人に与えたりもします。
あるいは、戦争中や貧しい国など「死」が身近にあるような環境では私達とはまた違う認識だろうし、もっと原始的な時代には神聖なものだと思われていたかも知れません。
そもそも、「死」がなぜ怖いのかといえば、それは動物は死を怖いと感じるようにプログラミングされているからです。じゃないと、すぐ死んで種の存続が危うくなるからです。
そのようにしてみると、「死」がネガティブなことに思えるのは単にそのようにプログラミングされているからに過ぎず、本当に悪いものかどうかは死んでみないとわからないし、ネガティブな意味しか無いように見えて、視点を変え、条件が変われば実はポジティブな意味はいくらでも見いだせます。
善悪、優劣、上下… どっちであるかをはっきりさせることや、その根拠を求めることなどは重要な意味があるようでいて、抽象度を上げてみればたいした意味などないのです。
願望(ゴール)と悩み(現状)のシーソーゲームから抜けだそう
あなたは何のためにゴールを設定していますか?
より良い人生を手に入れるためですか?
太っているのが嫌だから、痩せてキレイになりたいと思いますか。
お金がないのが不安だから、お金を沢山手に入れて安心したいと思いますか。
苦しみたくないから幸せになりたいと思いますか。
もしかしたらゴールの裏には消したいと思っている自分がいませんか。
例えば、セラピスト時代私はマッサージがもっとうまくなりたい、そして絶対的に選ばれるセラピストになりたい思っていました。
でもその裏には、自分はマッサージ師として劣っているという悩みがありました。
何かが足りないから何かが欲しいと言っているうちは、実は、本当に手に入れたいと思っているゴールは手に入りません。
コインの表だけ欲しいと言っているようなものだからです。
でも陰陽の両極を同時に認識出来たら、陰か陽かのシーソーゲームから抜け出すことが可能です。
その結果本当に必要な事が手に入る、本当に欲しいと思っているものを手にすることができます。
コインの表だけ欲しいと言っているだけではコインは手に入りません。裏は要らない、否定しようと思っていて、コインそのものが見えていないからです。
コインはコインだとわかったときにコインが手に入ります。
裏だけを否定したり、表だけを手に入れようとすることをやめたとき、手に入れるべきものが手に入ります。
自分は足りているか足りていないかとか、正しいか正しくないかとか、そんなことがどうでも良くなったとき、単なる願望はゴールへと昇華し、手に入るようになります。
私の例で言えば、マッサージがうまくないとか下手だとかそういうことが自分にとって重要ではなくなったときに、マッサージがうまくなって沢山のクライアントの役に立つというゴールに向かってまっすぐなエネルギーが伸びていくイメージです。
それは願望ではなくゴールへの確固たる「意志」や純粋な「意図」です。
確固たる意志がうまれると同時にエフィカシーは上がります。
エフィカシーとは、自分への根拠のない自信のことですが、ゴールが手に入るという確信を持っている状態です。
エフィカシーが高いと、ゴールを基準にして今を生きるようになります。
今どんな状態でもどんな自分でもゴールが手に入るための必要ステップなので、OKなのです。焦ったりしません。
ゴールに関係の無いことは氣にもなりません。
例えば自分がこれまでどんな実績を積み重ねてきたか、誰が自分の敵か、自分が優れているのか劣っているのか、病気が治るかどうか、そんなことはゴールの前には重要ではなくなってしまうのです。
もちろんゴールが達成できるかどうかなんて、考えません。
様々な悩みや問題、生きづらさは、すべてシーソーゲームにとらわれていることによって生じます。
それは○○しなきゃだめとか、○○な私は認められないとか、色んな条件を自分に課すゲームとも言えます。
そこから抜け出す方法はシンプルです。
どんな状態でも、無条件に今を受け入れれば良いだけ、無条件に自分にオッケーを出すだけです。
なぜなら、陰か陽かという秤にかける(ジャッジする)視点を手放すと、陰か陽かは本当にどちらでも良くて、無条件に手にしたいものが手に入ると思えるからです。
つまり何かになったり、何かを手に入れるのに「根拠はいらない」ということです。
それが氣功的な発想のエフィカシーのあげ方です。
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気功師、ヒーラー、セラピスト
認知科学をベースとしたヒーリングと中国の伝統気功を用いて、病人を辞めて、本来の自分の生き方に立ち返り自己実現を目指す生き方を追求している。
本当になりたい自分を実現し生きることこそ、病気を治すことの唯一の道であり、どんな状況にあっても自分の価値を探求しながら人生を生きることが人の本当の幸せであることを信じて活動している。
「道タオ」に通じる気功的な生き方、すなわち、頑張らず無理せず、自然体であれば、自ずと自分が持っている本来の魅力や能力が発揮され、健康に豊かに幸せに生きられるはず。
人生のパフォーマンスを最高に高めていくための一つの道具として氣功を提案している。