── 伝統医学氣功を生きた人生 ──
貧しさの中で芽生えた志
馬光文(まこうぶん)は、中国のハルビンに生まれました。
幼い頃から家庭は貧しく、長男として家族を支える責任を背負って育ちました。
日々の暮らしの合間に働きながら、武術の稽古に励み、やがてその修練の中で「氣」の世界に出会います。
それが、後に生涯をかけて探究することになる氣功の原点でした。
学業にも熱心で、繊維技術大学と医学大学という二つの学校で学び、技術と医療の両面から“人を支える力”を身につけました。
その実力と誠実さが評価され、20代の若さで政府機関の技術管理職に抜擢。
科学とリーダーシップの分野で頭角を現す一方、心の奥では「人を癒す氣功」の道への情熱が静かに燃えていました。
氣功と医の融合
医師であった叔父のもとで、中医学と西洋医学の知識を学びながら、馬光文は氣功の臨床に携わり、困難な症状を抱える人々の治療に力を尽くしました。
「氣功は単なる神秘ではなく、情報を扱う医術である」
そう信じる彼は、常に実践の中で理論を確かめ、氣と医学の両面から“治癒とは何か”を探求し続けました。
第二の人生 ― 日本へ
50代の頃、人生の転機が訪れます。
それまで築いてきた地位や名誉をすべて手放し、「氣功で人々の役に立ちたい」
という一念で日本へ渡りました。
言葉も通じず、住まいもないまま公園で夜を明かした日々。
それでも、
心は決して折れませんでした。
ほどなく治療院での仕事を見つけ、高い効果と誠実な人柄が評判を呼び、やがて独立して本格的に氣功施術を開始。
その確かな技術と温かな人間性に惹かれて、多くの人々が彼のもとを
訪れるようになりました。
(様々な場所で講演し、氣功を教えました)
数々の不思議な治療の記憶
馬光文の氣功には、時に常識を超えるような不思議な出来事がありました。
たとえば、何をしても治らなかった頭痛に苦しむ女性の髪を、
突然「ここを切れば氣が通る」と感じて、ハサミで数本だけ切ったことがありました。
女性は驚きながらも、その後、嘘のように痛みが消えたといいます。
また、何をしても良くならなかった方に、
馬光文が突然、神に祈るような
静かな舞を始めたことがありました。
ダンスが終わる頃には、その人の苦しみがやわらいでいたそうです。
中国では、自ら経営していた会社の社員が体調を崩した際、
社長席からそっと氣を送り、痛みを和らげたこともありました。
ある時は、僻地で高熱に苦しむ子どもの氣を遠隔で調整し、代わりにその病を自分が一時的に引き受けたことさえありました。
それでも彼は笑ってこう言いました。
「氣は意念で動く。治すとは、愛を送ることだ。」
一見、奇跡のように思えることも、馬光文にとっては氣功の理にかなった自然な行為でした。
そこには、氣の本質を深く理解していた者だけが行える“静かな確信”がありました。
氣功師としての哲学
馬光文の氣功の特徴は、
中医学と現代医学の統合にあります。
氣功によって身体の情報を読み取り、経絡や内臓の状態を感知しながら、
「滞った氣を取り除き、新しい氣を補う」──それが彼の治療の基本です。
「濁った水を清めるには、まず濁りの原因を取り除くことから」
─ 馬光文
この発想は、身体を単なる物質ではなく“情報場”としてとらえる
三和氣功の哲学へと受け継がれています。
三和氣功という集大成
中国各地で多くの名だたる氣功師のもとで修行を重ね、武術氣功・医学氣功・宗教氣功といった多彩な流派を体得。
それらの知恵を統合して誕生したのが、三和氣功です。
心(精神)
氣(情報)
体(生命)
の三位が調和し、自然と人、天と地がひとつに巡る。
それが「三和」の名に込められた願いです。
晩年と継承
長年の修練と活動を終え、
現在、馬光文は静養の時期を迎えています。
施設での療養生活の中でも、その穏やかな笑顔と静かな氣は変わらず、
訪れる人々を安心で包みます。
「氣功は、生命の尊厳を思い出す道」
─ 馬光文
その教えと哲学は、愛弟子である明香(あすか)によって受け継がれ、
現代の三和氣功の礎として息づいています。
馬光文が生涯をかけて伝えた「氣功=情報の調和」という智慧は、これからも多くの人の心と身体を照らし続けるでしょう。
略歴
- 中国国家認定氣功師
- 黒龍江康民医院 元院長・中医師
- 中華龍行氣功協会 会長
- 中国武術協会委員・国家級審判員
- 元 南京医薬学院 特聘氣功教授
長年にわたり、日中両国で氣功師・整体師の育成、
講演、医療氣功の臨床に従事。
伝統医学氣功の普及に尽力した。
馬光文が生涯をかけて探求した「氣功=情報医術」とは。
→ 馬光文の伝統医学氣功 ― 医学と氣の融合を学ぶ
(彼は東京での日常と旅行をとても愛していました。)
(施術に通う方々、教え子たちとは”家族のように”触れ合うことを楽しみました。)