思想と氣功 気功について 病気と気功

浄化は、起こすものではない

―― 神道の祓いと、三和氣功のヒーリングの在り方 ――

「浄化をしたのに、何も起きなかった」
「祓いを受けたけれど、変化を感じない」

こうした言葉は、ヒーリングやスピリチュアルの世界では珍しくありません。
そして多くの場合、
それは「やり方が足りなかった」「力が弱かった」という方向に解釈されがちです。

けれど本当に、
浄化や祓いは“必ず起こるべきもの”なのでしょうか。

 

 

1. 神道にも「祓いが起きないことがある」という考え方はあるのか

――氣功の視点から読み解くと――

結論から言えば、あります。
しかもそれは例外ではなく、
神道の自然観そのものと深くつながっています。

神道では、祓いが起きない状態を
「失敗」や「不完全」とは捉えていません。

それは、

  • 今は動かないほうがよい
  • 今は留まっているほうが自然
  • まだその段階ではない

という、自然の秩序の一部として理解されます。

ここを氣功の視点から見ると、
とても馴染み深い感覚があります。

氣功においても、
浄化は常に起きるものではありません。
氣の流れがまだ動かないとき、
浄化は「起きない」という形を取ります。

それは、
氣が滞っているからでも、
失敗しているからでもありません。

その時点では、
氣がその場所に留まっていること自体が、
自然な流れだからです。

氣功の感覚では、
その一部分だけを切り取って見れば、

  • 無秩序に見える
  • 濁っているように見える
  • 汚れているように見える

ことがあります。

けれどそれは、
流れの全体を見ていないだけ。

氣は常に、
最短距離で整う方向へ向かうとは限りません。
時に、留まり、沈み、混ざり、
一見すると「逆行」しているように見える段階を通ります。

神道が
「今は祓いが起きない」という状態を
自然として受け取るのは、
この氣の動きの感覚と、非常によく似ています。

神道は本来、
善悪や結果で世界を裁く宗教ではなく、
「いま、この時、この場で、
氣はどう在ろうとしているのか」
を静かに観る、
自然をいきる「みち」です。

祓われていないように見える状態も、
氣功の眼で見れば、
すでに自然の秩序の中にあります。

「祓いが起きない」という現象は、
汚れの証ではなく、
流れがまだ熟していないという、
ただそれだけのことなのです。

 

2. 神道の祓いは「起こすもの」ではなく「整うと起きるもの」

――三和氣功の視点から見る浄化――

神道における祓いは、
何かを力で取り除く行為ではありません。

それは、
清明(せいめい)な状態に戻るための働きが、
自然に発動できる
“場”を整えること

だから神道では、

  • 祓いは起こすものではない
  • 祓いは起きるもの
  • 起きるかどうかは自然の流れに委ねられている

という前提に立っています。

この感覚は、
三和氣功が「浄化」という現象を
どのように捉えているかと、
ほとんど同じ地点にあります。

三和氣功において浄化とは、
氣功師が何かを起こすことではありません。

浄化は、
氣が本来の配置に戻ろうとする働きが、
自ら立ち上がる現象です。

そのため、
氣功師ができることは限られています。

浄化を促すことも、
早めることも、
確実に起こすこともできません。

できるのはただ、
氣が自然に動き出せるだけの
余白と安全と時間が保たれる場を、
崩さずに在り続けること。

神道で言う「場を清める」という感覚は、
三和氣功では
「氣の自然な秩序が働ける余地を守る」
という言葉に近いかもしれません。

整ったから祓いが起きるのではなく、
整いが訪れたとき、
祓いが“起きてしまう”。

同じように、
整えようとしなくなったとき、
浄化は
氣の側から、自然に起き始めます。

ここにあるのは、
技法の違いではなく、
自然と人との関係の持ち方です。

 

3. 「時節」と「気運」が整わなければ、動かない

――氣功の観点から読む神道の祓い――

神道では、物事が動くかどうかは
時節(とき)と気運(きうん)に
深く関係するとされます。

祓いが起きないとき、
それは決して異常ではなく、

  • まだ時節が熟していない
  • 気運が巡る位置に来ていない
  • 内側の準備が整っていない
  • その場の気が、動く段階にない

という、
ごく自然な理由があると考えられます。

これを氣功の観点から見ると、
とても明確です。

氣功においても、
氣は常に
「動くべきとき」にだけ動きます。

動かないときは、
その場所に留まること自体が、
いまの流れとして正しい

その一部分だけを見ると、
停滞しているように見えたり、
重く、濁っているように感じられることもあります。

けれど氣功では、
それを「悪い状態」とは捉えません。

それは、
氣が次の変化に向かうために、
まだ配置を変えていない段階だからです。

神道が「時節」「気運」を重んじるのは、
まさにこの
氣の成熟を待つ感覚と重なります。

三和氣功で言えば、
「情報が自然な位置に戻る準備が、
まだ整っていない」という状態。

動かないことそのものが、
すでに自然の秩序の中にあるのです。

 

4. 祓いも浄化も、人がコントロールできるものではない

――氣功から見た決定的な共通点――

神道では、祓いは

  • 神の働き
  • 自然の働き
  • 気の働き

であって、
人間が管理したり、
操作したりできるものではありません。

だから、

  • 起きるときは起きる
  • 起きないときは起きない
  • どちらも間違いではない

という態度が、
ごく自然に受け入れられています。

これは、
氣功の世界では
とても基本的な感覚です。

氣功においても、
浄化は
「人がやるもの」ではありません。

氣功師ができるのは、
氣の流れを指示することでも、
結果を保証することでもなく、

自然の配置が整ったときに、
氣が自ら動き出すのを
妨げないこと

だから三和氣功では、
浄化が起きるかどうかを成果として扱いません。

起きないことも含めて、
すべてが
その時点での自然な在り方として尊重されます。

 

5. 三和氣功と神道に共通する、ひとつの世界観

――自然とずれない位置に立つということ――

三和氣功では、

情報が自然な位置に戻る準備が整っていないと、
浄化は起きない。
でも、それも自然。

神道では、

時節・気運・場の気が整っていないと、
祓いは動かない。
でも、それも自然。

どちらも共通しているのは、
浄化や祓いを
「成果」や「結果」で測らないという点です。

そこにあるのは、

  • うまくいったか
  • 変化があったか
  • 取り除けたか

という評価軸ではありません。

あるのは、
自然とずれていない位置に、
もう一度立ち直るという在り方。

人間が自然を動かそうとする立場から降り、
自然が動く余地を取り戻す。

これは、
三和氣功が最も大切に育ててきた
「在り方」であると同時に、
神道の根本原理とも、
静かに、深く、響き合っています。

それは、
新しい思想を作っているというより、
忘れられていた位置に、
もう一度立ち戻っている、
という感覚に近いのかもしれません。

 

なぜ人は行動を「起こしたくなるのか」

――それでも観る位置に立つ理由――

人は、不安になると
何かを起こしたくなります。

祓いたくなる。
浄化したくなる。
取り除きたくなる。

そうすれば安心できると、
どこかで信じているからです。

苦しさや違和感、不調や混乱を前にすると、
人は自然と考えます。

「何か悪いものがあるのではないか」
「これを取ってしまえば楽になるのではないか」
「早く、きれいにしたほうがいいのではないか」

操作は、
すぐに手応えがあるように見える。

やった感があり、
動かした感覚があり、
「自分が対処した」という実感が残る。

だから操作は、
とても安心に見えます。

 

けれど、
氣功の視点から見ると、
ここにひとつのズレがあります。

深いところで起きている苦しさは、
「取り除くべき異物」ではありません。

それは多くの場合、
生命が
何かを回復しようとして
動こうとしている途中の状態です。

まだ言葉にならず、
まだ意味づけもされず、
ただ、そこに在る。

その段階で
人が「起こそう」とした瞬間、
「良くしよう」とした瞬間、
「早めよう」とした瞬間、

生命の動きより先に、
人の都合が入ります。

すると、

抽象度が下がり
情報が分断され
余白が閉じる

結果として、
本来起きようとしていた変化が止まる。

操作が安心に見えるのは、
不安を一時的に覆ってくれるからです。

でもそれは、
生命が動くための静けさとは、
別の安心です。

 

それでも三和氣功が
「観る位置」に立ち続けるのは、
人を放置するためではありません。

むしろ逆です。

観るというのは、
何もしないことではなく、
生命の側に主導権を返すこと

評価せず
急がせず
正そうとせず

それでも、
そこに居続ける。

それは、
人にとっていちばん難しく、
同時に、いちばん深い
信頼の姿勢です。

 

神道の祓いが
「起きるときに起きる」と考えてきたのも、
三和氣功が
「浄化は自然に起きるもの」と捉えるのも、

人を無力にするためではありません。

生命を、
操作の対象にしないためです。

 

なにかを起こしたくなる衝動そのものも、
人間としてとても自然です。

不安になれば、
手を伸ばしたくなる。
整えたくなる。
どうにかしたくなる。

それは、
人間が生き延びるための
とても健全な反応です。

けれど、
三和氣功がここで言っている
「一歩引いた位置に立つ」という自然は、
その衝動を否定することではありません。

衝動を
生き物としての自然反応として認めたうえで、
そこに自動的に従わない、
というもう一段深い自然です。

人としての自然は、
反応が起きること。

生命としての自然は、
反応に飲み込まれず、
全体のリズムを保つこと。

衝動に従うか、従わないかは、
善悪や修行の話ではありません。

どちらも自然。
ただ、階層が違う。

衝動の自然は、
「私」という生存システムの自然。

一歩引いた自然は、
「生命全体」が動いている場の自然。

三和氣功が尊重しているのは、
後者です。

衝動を消すのではなく、
抑えるのでもなく、
超えるのでもない。

ただ、
その衝動も含めて
観られる位置に立つ。

そのとき、
人としての自然と、
生命としての自然は、
対立しなくなります。

だから、

なにかを起こしたくなる衝動も自然。
けれど、
その衝動に巻き込まれずに
一歩引いた位置に立つことも、
また自然。

その両方が同時に成り立つ地点に、
三和氣功のヒーリングの立ち位置があります。

ここに立ったとき、
生命は、
自分本来のリズムを
取り戻し始めます。

 

祓うことで安心するのではなく、
祓わなくても崩れない位置に立つ。

浄化を起こすことで整えるのではなく、
整いが現れてくるのを、
観ていられる位置に立つ。

それが、
三和氣功が選んでいる
ヒーリングの在り方です。

それは、
神道が長い時間をかけて
育ててきた
自然との距離感とも、
深いところで重なっています。

 


浄化や祓いの奥にある、
「治癒」という現象については、
こちらでさらに掘り下げています。

▶︎ 治癒とは何か― 操作を手放した先で起きること

 

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