― 操作を手放した先で起きること
治癒という言葉を使うとき、
私たちは無意識に
「悪いものが良くなること」
「問題が解決されること」
を思い浮かべているかもしれません。
痛みがなくなる。
症状が消える。
不安がなくなる。
けれど、
本当に深いところで起きる治癒は、
そのどれとも少し違う姿をしています。
多くの場合、
人は「良くなろう」とするとき、
身体や心に何かをしようとします。
理解しようとする。
原因を探そうとする。
正しい方法を選ぼうとする。
それらは一見、前向きで建設的です。
浅い層では、確かに役に立つこともあります。
(※ここで言う「浅い層」とは、
言葉や理解が届きやすいところ。
「深い層」とは、
言葉になる前の感覚や、
身体が先に反応してしまうところです。)
しかし、
長い時間うまくいかなかったもの、
何度も繰り返してきた痛み、
理由がわからない違和感に対しては、
その姿勢そのものが
治癒を遠ざけてしまうことがあります。
なぜなら、
「良くしよう」とする意識の裏側には、
ほとんどの場合、
- 今の状態はダメだ
- ここにいてはいけない
- 早く変わらなければならない
という、
身体にとっての不安全が含まれているからです。
身体はとても正直です。
どんなに美しい言葉で包んでも、
「変えられよう」としている気配を感じると、
自然に身を固めます。
守りに入ります。
浅いところで止まります。
三和氣功が大切にしているのは、
- 治す側:
知っている/できる/導く - 治される側:
知らない/できない/委ねる
この力関係を逆転させることです。
「治す人/治される人」という主客関係そのものを、
“成立しなくなる位置”へ引き戻すこと。
治癒を
「起こすもの」
「引き起こすもの」
「導くもの」
と考えるのを、いったんやめる。
代わりに、
治癒とは、
身体が“自分の位置”に戻れる
余地が生まれること
そう捉え直します。
治癒というプロセスを
力がかかる構造から、力が要らない構造へ戻すのです。
そのために必要なのは、
正しい方法でも、
強い意図でもありません。
必要なのは、
- 十分な時間
- 十分な安全
- 十分な「何も起こらなくていい」余白
この三つが、
同時に守られている場です。
そこでは、
変わらなくていい。
感じなくていい。
理解しなくていい。
ただ、
今ここにある身体の感覚が、
そのまま在ることを許されている。
この条件が揃ったとき、
不思議なことが起きはじめます。
こちらが何かをしなくても、
身体のほうが勝手に
深い層へと降りていくのです。
呼吸が変わる。
力が抜ける。
あるいは、
一時的に違和感が表に出ることもあります。
それは「変化」ではありますが、
操作の結果ではありません。
むしろ、
操作が消えた結果として
自然に起きてくる動きです。
だから三和氣功では、
治癒を「結果」として扱いません。
治癒は、
達成するものでも、
証明するものでもない。
それは、
立ち位置が戻ったときに、
あとから気づく現象に近い。
「あ、そういえば前と違う」
その程度の静かな気づきとして
やってくることが多いのです。
この先で、
「では、どうすれば
その立ち位置に立てるのか」
という問いが
自然に生まれるかもしれません。
けれどそれは、
知識で答えられる問いではありません。
三和氣功がつくっているのは、
治癒の方法を教える場ではなく、
治癒が起きてしまう条件を、
身体で思い出す場です。
治癒は、
起こすものではなく、
起きてしまうもの。
操作を手放した先で、
静かに、
しかし確かに。
