―戻る場所は、どこにあったのか―
自然体に戻れないのは、
努力や意識の問題ではなく、
戻るための構造が日常から失われているから。
このコラム
▶ なぜ、気づくとまた緊張に戻ってしまうのか
では、
そのことを見てきました。
では、本来、人は
どのようにして自分に戻っていたのでしょうか。
答えは意外にシンプルです。
戻ろうとする必要がなかった。
ただ、戻れてしまう環境の中で生きていただけ。
自然に戻れる「場」は特別なものではなかった
昔の人が特別に悟っていたわけでも、
意識が高かったわけでもありません。
日常の中に、
- 役に立っていなくても排除されない時間
- 何も生み出していない状態
- ただ一緒にいるだけで成立する関係
- 評価も結果も求められない場
が、当たり前に存在していました。
それは「癒しの場所」ではなく、
生活の一部だった。
だから、
緊張しても
疲れても
意識が外に向いても
戻ろうとしなくても、
自然に還流が起きていた。
そこでは、
人の生活や人生は
今よりも、もっと自然だったのです。
自然に戻れる「場」とは「何が起きるか」ではなく「何が起きなくていいか」
自然に戻れる「場」とは、
何かを起こす空間のことではありません。
むしろ逆です。
- 何かを達成しなくていい
- 正しくいなくていい
- 変わらなくていい
- 役割を果たさなくていい
- ただそのままでいい
そうした前提が壊れない空間。
この条件が整うと、
身体ははじめて警戒を解きます。
言葉で安心させなくても、
説明しなくても、
場そのものが「安全だ」と伝えている。
この場の中では、
身体は緊張する必要がありません。
なぜ一人では戻りにくいのか
「自分一人で整えられるようになりたい」
そう思う人は、とても多い。
でも、
それが難しいのには理由があります。
人の神経系は、
もともと単体で完結するようには
設計されていません。
呼吸も、
緊張も、
安心も、
他者との関係性の中で調整される。
人は、他者との関係性の中で生きているものだからです。
誰かと一緒にいるとき、
何も起きていなくても、
- 見張られていない
- 評価されていない
- 役割を果たしていなくていい
そう感じられるだけで、
身体は静かに緩み始めます。
これが、
自然体に戻るには「場」が必要な理由です。
これは依存ではなく、
生理的、神経的な仕組みです。
子どもは「言葉」ではなく「場」で存在承認を学ぶ
本来、
自己肯定感や存在承認は、
教えられるものではありません。
子どもは、
- 何もしていないとき
- 役に立っていないとき
- 失敗してもしなくても
- ただそこにいるとき
でも、
場から追い出されない経験を通して、
「生きていていい」
という感覚を身体に刻んでいきます。
これは教育やしつけではなく、
家庭や社会の
環境による学習。
いまの社会には、その条件がほとんどない
現代社会では、
- できること
- 成果
- 空気を読む力
- 迷惑をかけない態度
が、非常に早い段階から求められます。
子どもが、無条件に安全でいられるはずの家庭でさえ、
- 余裕がなく
- 不安が多く
- 正しさが優先されやすい
親が悪いわけでも、
愛が足りないわけでもありません。
親自身が、
ありのままでいていい場を
失ったまま生きている。
だから、
子どもにそれを手渡すことが難しくなっている。
回復のない疲弊と、親子関係の問題
この構造の中では、
- 常に自分や周りを監視する
- 常に緊張が残る
- 休んでも回復しない
- 自己肯定感が育たない
- 親子関係がこじれやすい
こうした問題が、
個人の努力とは無関係に増えていきます。
誰かを責める話ではありません。
回復できる場が、
社会にも家庭にも
ほとんど存在していない
それだけのことです。
氣功が「場」を重視する理由
氣功が扱ってきたことの本質は、
何かを変える方法や何かを起こす方法ではありません。
自然に還ることのできる条件です。
評価されず、
何かを起こさず、
できていなくても失敗にならない。
ありのままが受け入れられる場の中で、
身体が「戻っていい」と学習する。
それが、
氣功という実践の核にあります。
では、
なぜ評価や確認が入ると、
身体はこれほど簡単に固まってしまうのでしょうか。
このコラムでは、
その理由を
脳神経系と身体の仕組みから
もう少し具体的に見ていきます。
▶ 体が固まる理由―なかなか楽にならないメカニズムについて
氣功師・ヒーラー
頑張ることを手放し、ありのままの状態に戻ったとき、
人はもともと備わっている力や調和を自然と思い出していく。
氣功を人生を操作するための方法ではなく、自然体で生きるための智慧として提案している。