氣功師とは ― 癒す人でもなく、導く人でもなく「在り方」で世界と関わるという選択

氣功師とは ― 人生に、どの位置から関わるか

氣功師とは、
特別な力を使う人のことではありません。

誰かを癒す役割を担う人でも、
人生の答えを示す人でもありません。

三和氣功でいう氣功師とは、
人生や人と関わるときの「立ち位置」を、自分で引き受けている人です。

うまくいかない状況にいるとき、
人はつい、

変えなければ
整えなければ
何とかしてあげなければ

という位置に立ってしまいます。

氣功師とは、
その反射的な立ち位置から、一歩降りている人。

何かを起こそうとする前に、
「いま、自分はどこから関わっているのか」を
静かに観ている人です。

 

氣功師はなにをしないか

氣功師は、鎧を着ない

氣功師とは、
強くなる人のことではありません。

守るために、
鎧を重ねていく人でもありません。

むしろ、
鎧が必要なくなっていく生き方を選んだ人です。

評価されるための立場
傷つかないための構え
弱さを隠すための強さ

そうしたものを、
無理に脱ごうとするのではなく、
身につける理由が、だんだん要らなくなっていく

氣功師として生きるとは、
「守るために固める」位置から、
少しずつ降りていくことでもあります。

 

仮面をつけなくていい、という選択

氣功師は、
人にどう見られるかで立つ人ではありません。

良い人でいようとしなくてもいい
できる人に見せなくてもいい
悟っているふりをしなくてもいい

仮面をつけたままでは、
本当の意味で
人とも、人生とも、氣とも、触れ合えないからです。

氣功師は、
完成した姿を見せる人ではなく、
いまの自分の状態に、誠実であろうとする人です。

それは、
立派に見える生き方ではないかもしれません。

でも、
嘘のない関わり方です。

 

武器を手放していく、ということ

多くの人は、
無意識のうちに武器を持っています。

正しさ
理論
技術
経験
肩書き

それらは、本来、
誰かを守ったり、理解したりするためのものです。

けれど、
恐れから握られた武器は、
いつの間にか
自分や、
人や世界との間に距離や壁を作ってしまいます。

氣功師は、
武器を使わない人ではありません。

武器がなくても、人生に立てることを知っている人です。

だから、
必要以上に振りかざさなくなる。
証明しなくなる。
勝たなくなる。

 

氣功師として生きる、という選択

氣功師という生き方は、
一般的に言われている”楽”な道ではありません。

でも、
怖さを原動力にし続ける生き方より、
ずっと静かで、ずっと自由です。

鎧を脱ぎ
仮面を外し
武器を置いて

それでも、
人生から降りない。

むしろ、
より深く、人生と関わっていく

氣功師とは、
何かを得た人ではなく、
何かを削ぎ落としながら、
それでも立ち続けることを選んだ人です。

 

氣功師は、どこに立っている人か

氣功師は、
人生を他人事のように眺める人ではありません。

人生の波にのまれすぎず、
かといって、
人生との関わりを避けることもしない。

三和氣功でいう氣功師は、
人生のただ中に立ちながら、
そこに飲み込まれていない位置
に立つ人です。

うれしいときは、ちゃんとうれしい。
苦しいときは、苦しさをごまかさない。
迷いがあれば、迷いの中に居ることを許す。

それでも、
感情や状況そのものに
自分を奪われない。

氣功師は、
起きている出来事よりも、
それと、どの距離で関わっているか
大切にしています。

 

「癒したい」という動機から、氣功師になる人へ

氣功師になりたいと願う人の多くは、
どこかで
「人を癒したい」という思いを抱えています。

それは、
誰かの苦しさに触れてきた人かもしれないし、
すでに、癒す側として関わってきた人かもしれません。

三和氣功は、
その動機を否定しません。

むしろ、
人の痛みや揺らぎに、
無関心でいられなかったこと。
そこに、立ち止まろうとしたこと。

それ自体は、
とても人間的で、
誠実な感覚だと考えています。

 

ただ、「癒そうとする位置」には限界がある

けれど、
癒したいという思いだけで関わり続けると、
どこかで、無理が生まれます。

相手の変化を背負ってしまう
うまくいかないと、自分を責めてしまう
もっと良くしなければと、力が入ってしまう

「癒す人」として相手に関わろうとするほど、
気づかないうちに、
自分が引き受けるものが、少しずつ増えていくことがあります。

そうしているうちに、
本来は静かに起きていたはずの癒しが、
だんだん起きにくくなっていく。

それは、
やさしさや能力が足りないからではありません。

癒そうとする側が、
いつの間にか多くを背負いすぎてしまい、
自分自身が疲弊していくからです。

三和氣功はそれを「間違い」だとはとらえていません。
誠実に癒しに関わろうとする人がさけられない道の課程です。

 

在り方に向き合うと、「癒し」は変わり始める

氣功師として、
自分の在り方や立ち位置に
誠実に向き合い始めると。

「癒す」という行為そのものが、
少しずつ姿を変えていきます。

何かをしてあげること
変えてあげること
楽にしてあげること

ではなく、

自分が、どんな状態でそこに居るか
どんな緊張や期待を持ったまま、相手と向き合っているか

その一点が、
関わりの質を大きく左右していることに
気づき始めるからです。

すると、
相手に起きる変化も変わってきます。

早く起きる表面的な変化ではなく、
深いところで、
あとから効いてくる変化。

依存ではなく、
その人自身の力が立ち上がってくる変化。

 

氣功師は、「癒し」を手放す人でもある

少し矛盾して聞こえるかもしれませんが、
氣功師として成熟していくほど、
「癒している」という感覚は薄れていきます。

それでも、
結果として、
人や場が整っていくことがある。

三和氣功では、
それを
「癒しが起きている」とは呼びません。

在り方が整った結果として、
自然に起きている現象だと捉えます。

癒したいという動機は、
入口として、とても大切です。

けれど、
氣功師として生きるとは、
その動機を
より深い誠実さへと、静かに変えていく道でもあります。

 

氣功師として生きる、ということ

氣功師として生きる、というのは、
特別な役割を引き受けることではありません。

人を癒す人になることでも、
導く人になることでも、
何かの肩書きを背負うことでもありません。

それは、
自分がどの位置から人生や人と関わるのかを、
その都度、自分で引き受けていく生き方
です。

うまくいかないときに、
誰かや状況のせいにしないこと。
かといって、
自分を責めて立ち上がろうともしないこと。

いま、
どんな感情で
どんな緊張を抱えたまま
どんな距離感で
人生と向き合っているのか。

そこに気づき、
そこから関わり直すことを、
他人任せにしない。

氣功師として生きるとは、
「どうすればいいか」よりも、
「どんな状態でここに居るか」を
大切にし続けること
です。

 

技術よりも、在り方が先にある

三和氣功では、
技術や理論を否定しているわけではありません。

ただ、
それらが本当に役に立つのは、
在り方が先に整っているときだと考えています。

同じ言葉を使っても、
同じ技法を行っても、
どの位置(抽象度)から使われているかによって、
結果はまったく違ってくる。

恐れから使えば、
守るための道具になる。
静けさから使えば、
自然な関わりが生まれる。

氣功師とは、
その違いをごまかさずに見続ける人であり、
自分の位置に対して誠実であろうとする人です。

 

それでも、特別な人になるわけではない

氣功師になることで、
迷いがなくなるわけではありません。

感情が揺れなくなるわけでも、
人生の波が消えるわけでもありません。

ただ、
揺れている自分を否定せず、
迷っている自分を切り捨てず、
それでも人生から降りない。

その姿勢が、
結果として
人や場に影響を与えていくことがある。

三和氣功では、
それを「力」とは呼びません。

在り方が、そのまま伝わっていく現象として扱います。

 

2026年2月1日